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好き嫌いの情


単に好き嫌いの感情で他者との交際を決めることは、あまりよい選択にはならないのではないか。「昔からの阪神ファンだから、ずっと応援しているのだ。」「とにかく顔立ちが気に入ったから結婚したのだ。」などは、どうでもいいようにも思うが、「あいつのものの言い方が癪に障るから、もう相手にしないのだ。」「同窓生だけれど、みんな好き嫌いで交際をしたりしなかったりしていますよ。」というようなことを言われると、本人の勝手ではあるが、あまり成熟した人間関係に至らぬようにも思ってしまう。「好き嫌い」より、「信頼関係」をどう築いていくかが問われるべき課題のように思う。

「いつも一緒に山に行ったり、付き合ったりしているのに、どうして、そんなにあいつを嫌うのですか。」と、今日も教え子に聞かれた。わたしは、ひとまず好悪の情は抑えて、それでいて深い会話をするようにしている。教師の常であろうが、どんな生徒にも、胸襟を開いて会話し、踏み込んだことをよく言う。だからと言って、その生徒が好きだとか嫌いだとかは別なこと。だから、「別に嫌っていないよ。いま一つ心が置けないだけだ。」というも、仕事の上でも、私生活でも、自分の「好悪」を軸に動いている、その教え子には通じないらしく、嫌っているのに仲良くしているなんて偽善だと映るらしい。

しかし、「好き嫌い」は、そんなに固定して捉えるべきものだろうか。わたしは「海鼠」が大嫌いだったが、ある時から好物になった。うどん文化の大阪が嫌いだったが、大阪のしたたかさにこの頃は魅せられている。「恨み・辛み・憎しみ」にいつまでもこだわるのもいかがなものか。もっと功利的にとらえたり、異次元でとらえたりして、許容し、融合し、止揚していくべきではないか。「信」と「愛」に向かって、変容向上していくべきでではないか。79歳になった翌日の「狡猾」かもしれない。いや、「したたかさ」と言ってほしい。(2022.4.8.)

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巻きエビと渡り蟹のサラダ
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