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ソクラテスの死


ソクラテスは死してなお、2000年以上の時を経て現代も偉大な哲学者として世に知られています。ソクラテスは死にましたが、死ななかったのです。もし彼が命乞いや逃亡をしていたら、そうはならなかったかもしれません。ソクラテスが生前アテナイの広場でやっていたことは、労働、仕事、活動、のどれだろうか、とふと考えてみますと、少なくとも労働ではないことはわかります。労働する必然性がありません。仕事、といえば仕事ですが、本人は仕事をしているという意識はおそらくなく、ひたすらに人々との議論を積み重ねることにより、知らず知らずのうちに後世哲学の父と呼ばれるほどの大いなる仕事を成し遂げたように感じます。やはり活動なのか。それも、真理を見出すこと、問い続けること、そうした、人間とは何かという本質に迫る活動だったのではないか。人間の普遍的な真理に基づいている活動だったからこそ、死してなお死なず、むしろますます輝きを放つのではないかと思いました。しかしソクラテスは生計を立てるための仕事をしていなかったそうなので、無理矢理に3つにはてはめ考えても仕方のないことかもしれません。それでも、なぜ彼が死んでなお死なずに生きているのか、そこに私が生きること、自分の仕事をすることへのヒントを得られそうです。私は今、勤め人なので、一見労働をしているかのように見えますが違うことがわかります。先生のおっしゃる通り「労働力」、これを提供しています。労働に「雇用」「生産性」「対価」などの軸をあてがわれると、それはもはや純粋な意味での労働ではなくなります。あるシステムに組み込まれ、要求される仕事をし、労働力として能力を提供し、生産性を管理される側の人間としての自分が見えてきます。では搾取されていくしかない身分なのか、というとそれもまた違います。そこには人間の命の自由がありますし、私は奴隷ではありません。しかし、このシステムの中にいる以上、知らず知らずのうちに、緩やかに奴隷化されているのかもしれません。いえ、実際、そのとおりです。田舎にいると田舎の人間になるように。そのような問題意識が高麗さんと先生の対談を聞き浮かび上がりました。活動とは「あなたは何者なのか」を問われることです。情けないことに、私はまだ、その問いに対する明確な答えを持ち得ていません。やはり、修行です。勤め人でありながら、いだきアントレプレナー精神を持ち日々を生きること。それが新たなシステムへの移行プロセス、修行プロセスであると理解します。

いだきしん先生、高麗さん、いつもありがとうございます。

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