標準化
バスの車窓から外を眺めていると、道を行く人、信号待ちの人が「普通」と映ってしまう自分があります。私も「普通」の中の一人で、「普通」の標準に甘んじていると想われます。先日ある文具店のレジで、ベルトコンベア作業のように接する店員に我慢出来ず、クレームを言ってしまいました。要するに「機械」的でお客を物と扱っているように感じ「カチン」ときてしまいました。しかし、これは鏡と理解します。機械なので同じことの繰り返しで、時間もチャンスも、また自分でさえも大量生産の一つかのように、唯一無二とは感じられなくなっていると理解しました。オンデマンドで11日応用コースを改めて拝聴した時に、自分の中での標準化は機械化に等しいと感じられ、その状態は失礼なことをしてしまう状態だとも到りました。話は変わりますが、去年辺りからか、中学よりずっと疑問であった奈良時代頃の人物の名前が稚拙な権力者によりすり替えられたのではないかと考えはじめました。そして先日の新宿での高句麗伝説後より火が点ったように毎日考えてしまっております。蘇我馬子、蝦夷、入鹿です。本当の名前が知りたく、いつか明かされないものかと考えている自分があります。厩戸皇子も然りではないかとも推測しております。独りよがりの妄想かもわかりませんが、今気になっていることとし記させて頂きました。
ありがとうございます。
田嶋利江子