9日コンサートを終え
8月2日のコンサートの後、仕事の集いがありました。不思議と今まで華奢で小柄だと認識していた方々が、実は私よりも背が高くがっしりとしていたことに驚かされました。そしてこのようなことが多々あり、自分の中が何か変わったのだと感じます。「ベール」を剝がされたことにより自分のちっぽけさが露呈し、それはそれで嬉しいことではあるのですが、ただ本当の自分を表すことに最後なのか「あがく」自分を否めず、このまま表さない人生でもいいではないかとか、もう(ばれてしまって)「終わった」とか、混乱と放棄の状態で9日を迎えました。コンサートを終え帰路に立ち京都へと戻りましたが、なぜかコンサートにて自分が何を感じ取ったのか覚えておりませんでした。書き込みを読ませて頂き、思い出され今書いております。一つ一つ、何か辿るように演奏が始まったことを覚えております。最初のインターバルを挟み、ここからが本番とばかりに重く激しい音が始まり、自分には原爆投下と空襲での惨事とが思われ、長崎から日本国中の当時を想い、そして今のウクライナでの戦争とも重なりました。今の空気が戦前と同じであるとある俳優の発言を見ましたが、誰も気づかないままに進んでいくことに、また知らされてもどうしたらいいのかわからないままにことが運ばれることにもどかしさを否めません。昨日久しぶりに胃カメラをのみました。今は半ば眠っている間に済ませることができるので楽です。7月に入り身体に不調があったため、気になり紹介状を携えて総合病院で診てもらいました。そして2週に渡りエコーと胃カメラの検査をする運びとなりました。偶然に両日とも予約が取れたのがコンサートの翌日で、昨日の担当医の話では恐らく大丈夫との診断を頂き安心しました。恐らく身体が変わっている軋(きし)みと捉えます。しかしながら、昨今の病院はシステム化され、「面白い」と不謹慎にも感じました。受付機に診察券をかざすと、手平サイズの端末が中から出てきてどこへ行くのか、次にどうするのかなど指示をします。またルーティンではあるでしょうけれども忙しいので活気があり、今までの病院のイメージが払拭されております。
ありがとうございます。
田嶋利江子