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高校生の”置手紙”


高校最後の期末試験に、作文「置手紙」(何か言い残したいこと、だれかに伝えたいこと)を課した。それを読んで、わたしは、うれしさと戸惑いを感じてしまった。みんな、特にスポーツ枠クラスの子は、とても素直で、両親やクラブ仲間に、そして先生に、感謝と喜びを伝えていて、その口吻に引き込まれ、泣きそうになってしまった。特に、朝早くから弁当を作ってくれ、汚れた衣服を洗濯してくれた母親や、何かと励ましてくれた父親に、「ありがとう!」を繰り返し、あるいは、支え合った仲間にうれしさを伝え、まるで屈託がなく、マンガのように明朗闊達なのだ。「大学に行って、なんとか技量を磨き、両親に恩返しをしたい」なんてあるので、現代の少年たちのようには思えなかった。これで大丈夫なのかと思ったし、この子たちは思春期の悩みや、両親との葛藤、世間への不信などがないのだろうかと思ってしまった。あるいは、試験のためで、わざとそんなふうに書いているだけなんだろうかと、疑いもした。しかし、どうやらかれらは、「本音」で書いているようなのだ。だから、わたしは、この素朴さ、健全ぶりは、やはり「希望」ではないかと、受け止めている。大学に進んでも、この気持ちで精進してほしいと思いもするのだ。

もう一つ、教師冥利に尽きる話で、(ちょっとおこがましいが)多くの生徒がわたしへの感謝を書いてくれていて、「先生に持ってもらってよかった。」「楽しく、自由に過ごせた。」などの文面に、またまた泣きそうになってしまう。ただ、何人かの生徒が、面白いことを書いていたのだ。
それは、「先生の授業を受けた最初のころは、何を言ってるのか、さっぱりわからなかった。聞き取れなかった。しかし、それが次第にわかるようになった云々」という文面。そう言えば、別の学年の担任からも、「先生の声が聞き取れない」という苦情があります、と注意を受けたことがあった。「声」を届かしている自信はあるので、なんともへんな気分だったが、今回の「置手紙」を読んでいて、分ったのだ。それは、わたしが、生徒たちの思いとかけ離れたことを言うからに違いないのだ。生徒にかぎらず、人は、自分が聞きたいようにしか聞かず、あるいは、通常の常識の範囲でしか理解しようとしないのだ。いつも最初に、どうして「国語」を学ぶ必要があるの?もうしゃべれるじゃないか。と聞くことにしているし、知識と教養は違うだろう、クイズ番組の早押しなんてナンセンス、などと言うものだから、まじめな生徒ほど、戸惑い、聞きとりにくくなるのだろう。だからといって、従来の国語の授業でいいとは思っていない。思考力や表現力を養うことを主眼にしたいと思っている。「なんやコイツ!」と思っていたが、たくさん話していくうちに、「めちゃいい奴やん。」と思うようになりました。わたしには、ボーナスに匹敵する言葉だった。

 

 

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