雨の七夕
一滴の雨でも、牽牛星は織姫に会えないのだ、と子どものころ聞かされて以来、「七夕伝説」が嫌いになった。そんな無茶な、無理難題。しかも、旧暦7月7日のだから、新暦の今日に無理に当てはまることにも嫌気がさした。無理承知の行事や物語に、あまり心がなじまないのだ。市内のあちこちに、自治会の行う祭典行事があり、竹に短冊が付けられ飾られている。「彼女ができますように」とか、「宝くじが当たりますように」とか。ありふれた願い事が飾られていることも気に食わない。どうして「彼女をつくる」とか、「宝くじを当てる」とか、言いきらないのだろう。願望レベルの文言で、「ささやかな願い」を表示しても、何にもならないよ、と憎まれ口の一つも聞きたくなる。
安倍首相の暗殺事件から一年。「暴力行為は絶対に許せない」と、人々は言い、「もっと言葉の力を付けないといけない」と、識者は語る。しかし、具体的な手法や課題については、ちっとも語られない。AIやデジタル社会の中で、人間の言葉力の養成が急務だと言われ続けているが、ここでも「七夕の願い」レベルでしかない。
「言葉力」を養う実地の第一歩は、「書く」こと。「記録魔」になることでなく、自分の「こころ」を書き出すこと。そして、できればそれを文章なり詩なりに綴ってみることだ。そして、つぎに「話す」こと。この頃は、教員同士でも挨拶さえしない奴が多い。何が不機嫌なのか知らないけれど、ムスっとして、世間話一つしない。さらに、「歩く」こと。いろんなものに触れ、出会いを重ねてこそ、感受性は磨かれ、知性は育つのだと思う。体を通してこそ、その人ならではの言葉が育ち、共感につながるのだと思う。
梅雨が終わり、酷暑の夏が行き、秋空の中でこそ、「星語り」も、論理や物理を越えて、美しい夢を咲かせるのだと思う。