銀河鉄道を待つ盛岡の朝。
いだきしん先生が仰ることがわかったと感じてもきちんとわかってないことが多かったのですが、最近は曖昧さを回避するために「わかってると思ってること」を書いてみると「わかっていないこと」がわかります。わかってないことを質問する時も何をお聞きするのか明確にしないと先生の例え話やさらに先へ行くためのお話についつい迷い込んでしまい、自分が「聞こうとしていたわからないこと」を見失います。表層的な疑問は先生の真のことばの大河に一瞬にして消滅します。
最近は先生のお話がよくわかり、「わからないこともよくわかる」ので質問が立ちます。すると先生の導きのお話の要に心の芯がビビッと共鳴し、対話の中でわかっていきます。存在論で「わかり方」についてお聞きしました。先生がご自分でやって来られてわかったことを「お聞きしてわかる」というわかり方は自分が本当にわかったことにならずに「信じている」だけではないのか?と疑問がありました。先生のお答えは「対話しお互いの理屈があっていればわかっていく」とのことでした。「わかっている先生」との対話から「自分がわかっていく」プロセスに入ると捉えましたが、その後に先生がイエス様との出会いでの経験を話してくださいました。
先生が中学生の頃に「イエス様に会いたかった」というお話は何度かお聞きしているのですが、結果的に会えたことでカウンセリングを受けているような経験をし、イエス様に会えれば何とかなるということがそのまま実現しました。
ところが私には昨日お聞きしている時にこれまでには気づかなかった疑問が浮かびました。自分の中学生時代ならイエス様は歴史上の人物だから会えるはずはなくて「会いたい」という発想自体が生まれないと気づいたのです。すかさず先生が「またわからないことをいってるなあ」というようなリアクションをされた瞬間にわかりました。
人は「一人一人が全く違う」ということを飛び超えてそもそも「全く違う存在」である先生をわかってる自分に気づきました。わかってるのにわからないように考えてしまう自分の癖が出ました。「一般的な物事のわかり方」ではなく「先生のわかり方」を理解したかったので先生の存在がわかった瞬間に「先生のわかり方」もわかったのでした。
どこから切ってもどう見ても宗教ではない「いだき」が既存の宗教と決定的に違うのは「存在論があること」と捉えている。・・と、昨日サロンに書きました。「存在」とは「ある」ということ、という基本中の基本を一番最初の存在論でお聞きしたことをよく覚えています。人類史上初めての全く違う「存在」が「ある」と真実がわかると、歴史上では背景に宗教を巡る対立や争いが絶えず今に続いていますが、その解決への「みちひらき」が見えてきます。存在を表すということが生きることとはわかっても「世界」を正確に理解できないと空回りになり持続不可能です。
早くからプラットフォームで待っていてもこの何年かはいつも乗れなかった銀河鉄道、今夜も現れてくれるでしょうか。