酷暑見舞い
“疲労”の日々(いつもお便りを下さりありがとうございます。おかげでなんとか乗り越えて生きています。近況報告まで)
先週から暑さゆえか、疲れを感じ、いくら寝てもすっきりしないし、その上左奥歯まで傷み出した。歯科医は、「虫歯というより噛み合わせの不具合、いわば歯ぐきの捻挫みたいなもの」と訳の分からないことを言う。それより、昨夜話したKさんの、「そりゃ疲れてるのでしょう。」の方が納得できる。82歳という年齢を思えば当然かもしれないが、どうも「老衰」を認めたくない自分がいる。それは、Nさんが言う、「先生は、若さにこだわっている。」とも違って、「老衰」という概念に囚われていたくない心情なのだ。体が若い人と同じでないと嘆いているのでなく、老人だからと言って、弱々しく、気力をなくしたさまでいるのが普通だと決めつけたくないだけだ。死ぬ間際まで活躍していたいし、学び続け、生を歌い上げていたいもの!
優しい生徒の双子が、「休まないとだめですよ、先生は頑張り過ぎですから!」と言って帰って行った。歯医者から出してもらった痛み止めと抗生物質、そして、ビタミン剤を買ってきて飲み、昼寝も摂った。それでも、掃除がしたくて仕方ない。床を吹いたり、水回りを清潔にしたり、洗濯も二度した。そして、夕方、もう日が沈んでから、やはり海まで散歩に行こうと思う。さっき昼食の帰りに買ってきた、坂口安吾の『堕落論』を再読したいと思う。最近、柄谷行人の『意味という病』を読み直し、あらためて、言葉の魔力について考えねばならぬと思い、その人が、「坂口安吾とフロイト」という一文を、この文庫本に寄せているので、買ってしまったのであるが……。因果関係や分析で、そうなった原因を考え、分かったような気分になって、結局は、古い観念や常識の中で囚われていることから脱していたい。「言葉」は大切であるし、探求の手を止めるべきではないが、「もう一つのメッセージ」を聞かねばならぬし、いくつになっても、その努力をやめたくないものだ。やっと、いだきしん先生が、「ピアノ」で伝えようとした意味が、人々の勝手な解釈や意味づけを越えて真実を伝えうる可能性が理解できてきたように思うのだ。おんぼろカセットのCD「しん」が疲労を癒してくれる。
暮れなずむ浜辺を歩いて行くと、黙々と釣りをする人や犬を連れた人とすれ違う。すると、向こうから来た二人連れの若者の一人が、「こんばんは!」と挨拶してきた。もう顔の表情も見分けにくい暗さだったが、思わず、「こんばんは」と応じ、何か疲労感が消えるような、さわやかな感覚を味わった。微風ながら風も、茜雲も、山なみも、そして神社の古木も、疲れを癒してくれた。
(8/2)