邪(よこしま)な
京都コンサート、講座、講演会と経験させて頂き、14日は自分が空気のように感じられました。言葉を探し「透明」、、ではなく、「何もない」「満ち足りた」「ただ在る」とも表現できるのですが、それらは比較か自分主体からなるように感じられ、そこで「空気」と言いますか、ただ貼り付いた言葉もなく真っ新な自分でありました。そして人に接するときに、記憶からなる思考がつついてきますが、すぐにサッと吹き飛ばすような力がありました。記憶からなるパターン、落ち込み、気遣いからの同調、怒り、人に囚われることなどの日常的に湧く些細な感情などがすべて「邪な」ことではないかと感じられました。14日は、警戒もなく人が話を聴いて下さり、何ていい日だろうと感じました。しかし、昨日は打って変わって、人の反応がおかしくなりました。自分の中を書き出したりとしましたが、そう変化もなく、こういう日なのだろうとしました。しかし何か手立てはなかったものかと振り返ると、積極性を欠いていたことに気づき、次回からはただおかしくなったと始末せずに積極的にこちらからアプローチしていこうと昨晩考えました。また昨日は人に何か取り繕う気持ちも生まれてしまい、後から人に対して失礼なことなのだとも捉えられ、ただひたすら自分のすることに進むとしました。ビデオ講演会から新しい習慣のことを拝聴し、今止まっていることを気にしながらも流している、今年から始めた習慣を振り返りました。小さなことですが、帰ったらすぐに靴磨きをすることです。しかし、そこに始まり他も止まって行くのかもしれないと、今感じております。やはりこの靴磨きの小さな習慣も大きな意味があると、今度は真面目に再開します。
ありがとうございます。
田嶋利江子