“過激な言葉”が祟って
一味違う「国語の学び」を認知症の改善に役立てることはできないだろうかと、知人を介して、ある精神病院にアピールしに行ったのだったが、「ちょっと難しい」という返事が届いた。自分のやりたいことを言える機会と思って、ちょっと張り切って、言葉が走ってしまった。「面白い話だったが、命を預かる病院では、過激すぎたのではないか。」と知人が言う。昨日の生徒のスケッチにも、「すぐに過激な言葉を使う。」とあった。また、文章に正直にコメントしただけなのに、機嫌を損ね辞めてしまった人もいる。筆禍ならぬ「口害」が多いのだ。
ただ、わたしは正直に本音を述べたに過ぎない。先日の新聞(4/16朝日新聞)にも、「本音が言えずストレスをためてしまう人が多い。」とあった。勿論言いたいことをかまわずにぶちまけるのがよいはずはない。時と場を踏まえ、相手の立場を思いやる気持ちが必要だろう。その新聞には、「意見よりも事実を」「一気にではなく小出しに」とあった。しかし、人はあまりにも言いたいことを言わず、本音を見せないことを社交の常套手段と思い過ぎだ。そして、だからと言って、それで話し合いを止めてしまうのが一番悪いと思う。手を変え品を変え、話し合うべきではなかろうか。一方的な通知で切れてしまうから、ストレスがたまるのだ。
(わたしは、明日、救済されるだろうが……。)