賄賂と献金と国葬と
昨日久しぶりに訪ねてきた大学生と話していたら、「莫大な経費を国税で賄うことは、問題を感じますが、外交上の点からは国葬が望ましいし、やらないわけにはいかないでしょう。」と、かれが発言したので、妙に納得する。しかし、オリンピックをめぐる賄賂の問題や、T教会に対する多額の献金問題のひどさを思うと、すべてが「金」の問題に集約されてしまいそうで、そのどうしようもなさにうんざりしてしまう。国葬を巨額費用の税金拠出という点からのみに反対するのでないのに……。「金」のことより、国葬にすることで、なにかを隠蔽し、多くの課題を追悼の意で不問にしてしまおうとするのが嫌なことと改めて思う。「軍事力」より「文化力」を高め、「物質」より「精神」を高め、「束縛」より「自由」を求め、豊かな国際国家を建築するはずではなかったかと、改めて思う。「金がない」ことにとらわれずに、可能性と偶然を大切に前進して行きたいと思っているのに、こう「金」「金」「金」ではやりきれない。「金」による疎外から解放されたい。「金」より「行動」のボランティア精神や、「募金」とか「カンパ」による賛同精神、「ベーシック・インカム」や「グラミン銀行」精神が伸長するように望むばかりだ。「金」を巡る明るいニューズがほしい。(9/14)