講演会を拝聴して
仙台コンサートで死霊が先生の方へ向かい先生のお身体が「死霊ばっかりで黄泉の国となっていた」ことを知りました。とんでもないと感じました。とてもとてもありがたく、また申し訳なくも感じ、「ありがとうございます」とただひたすら申し上げたい心境です。自分の身体のことで恐縮ですが、1月に痛めた箇所が2月のヤマハコンサートより疼きだし、ずっと違和していました。「死霊・生霊」が剥がれていると受け止め時間のままにと過ごしておりましたが、仙台でのコンサートにてかなり軽減され、やはり死霊か生霊であったと考えました。びわ湖コンサートのことで自分を仕切りなおしたい気持ちで応用コースに臨みました。今自分が何を始めるのか、また心の片隅に追いやっているあることをまた再び考えることになっております。あることと申しますのは、「食」の場を作ることであります。きっかけはある受講生のカフェでの心豊かな経験です。これから食料難になることは言われ、海外でもそれに備えての研究はされてきておりますが、そのことも含めての「食」をずっと考えているだけ、、でありました。海外の子供がデモを起こしていることはテレビでたまたま見ておりましたが、先生が懸念されていらっしゃることまでは考えが及びませんでした。この危機的状況に不安が膨らんでいるのだと考え、行動されている大人も多いですが、更に一人でも多くの大人が行動を起こすことでこの子供たちに安心を与えられると感じます。自分は一体何をするのか問われます。狛江の会場ロビーで、東京にお住まいの方が三鷹もびわ湖も都合が悪いと断る姿に驚き、恵まれた所に住みながら何故ご都合がつかないのだろうと考えました。また自分の不甲斐無さにも面目ない気持ちでした。その受講された方のことを考え、外での顔と会場にいる顔が一貫できないものかと感じました。「真貫く」ことは、自分の信念、志がどこを向いているのかをはっきりさせていることと考え、職場でも家庭でもその姿勢は崩さないことと至ります。つまり、自分は平和を実現のため真剣に人生かけていらっしゃる方に賛同して生きていること、そのためにコンサートは優先することを周りにもはっきりと示しているかということに至りました。そこで昨日の自分を振り返りました。講習を受けておりましたが、同じく受講している方の前で「真」であったであろうかと振り返ります。教室には高句麗の地で笑顔の高麗さんの写真額が置いてあります。この方は誰かと尋ねられたので、NPO高麗を建てた方など説明をしました。自分の「真」の言葉は経験からの言葉であったと今感じます。もっとこの言葉で表現しないから反って誤解を生むのかもしれないと考えます。昨日の夜は姉の誕生日で家族と会食しました。疲れていた上にアルコールが入ったこともあり、ほとんど喋りませんでした。喋れないというのが本当かもわかりません。目指す所が違うので、話に心が通わない虚しさがあります。会ったことが迂闊であったとも帰り道に考えました。これも一貫していないことかもわからないと考えます。
失礼いたします。
田嶋利江子