KEIKO KOMA Webサロン

読書と述懐で


 元気をなくしても

  いま本屋の店頭に山積みされている本の一つ、養老孟子著『人生の壁』(新潮新書)と、塾生に勧められた、工藤勇一・鴻上尚史著『学校ってなんだ!』(講談社現代新書)を読み、ずいぶん心が救われた。前者では、「自分にとって居心地のいい状態を知っておくこと」の大切さを再確認できたことが大きく、どうしても意識過剰で、生きる意味を考えすぎるわたしの偏りを指摘された感じがする。そして「お金」や「言葉」に振り回されていても仕方なく、「自己とはトンネル」という哲学で、無為自然も大事ということ。分けても、「言葉はすべてを同じにする」から、立派な標語ほど信用できないものはない、という指摘が心に刺さった。だから、後者の「対話」の重要性と「自律」の必要性が納得できるのだ。とにかく感情過多・言葉軽視の風潮が強いが、やたらと対立軸を立てて、傷つけあうのでなく、落としどころを見つけるべく、十分に話し合う、「心の教育」などという言葉で分かったような気分になって、現実から離れるな!という指摘は、わたしの弱いところを照射してくれた感じ。
 いま、わたしは、「高められた話し言葉」(故片桐ユズルさんの言葉)ではないが、“感情のバターが載った”会話サロンを開催したいと思っている。工藤勇一先生の「対話」の理念と具体的スキルに近いが、あまり問題解決ということを意識せず、自由な話し合いの中から、気づきや行動意欲を培養したいのだ。だから、「対話」でなく「会話」なのだ。名づけて「連文会話」。これで、「書く」と「話す」の訓練が同時にできる。そして、他者との信用を育成することができる。さらに、「評価」し合うことによって、「建前」の壁を壊し、言葉を「本音」に近づけることができる。――このことの必要性を上記の二つの本を読んで、よりいっそう感じ、現実のトラブルや生活の不安から逃れることができたのだ。
 ちょっとデジタル処理についていけず、自分の無能さをさらしたり、ちょっとお金が不足してきたりすると、「どうしよう」と焦り、心配が募り、孤老の身の不安定さが身に染みてしまう。でも、読書が、記述が、わたしを救ってくれる。いつも学ぶ姿勢を崩さず、いつも自分の気持ちの言語化を怠らず、いつも自分の居場所を整理しておけば、年令や資格や金銭に関係なく、自分自身の存在が明確になり、楽しい自信も湧いてくるのだ。
 地元兵庫県の斎藤知事の問題は、あの選挙自体に疑問があって、どうもすっきりしない。激情型のSNSに振り回され過ぎて、ちっとも落ち着いた話し合いがないのも嫌なこと。韓国の戒厳令騒ぎもそうだが、余りにも「行動」ばかりが優先されて、「言葉」が、その落ち着いた力を発揮できないでいる。シリアのアサド政権崩壊も同じ。今年夏、シリア映画『ダマスカス・アレッポ』と『ナツメヤシの血』を見て、必死になって「人間的魂」を失わないでおこうとするシリアの人びとのことを思えば、とても「独裁政権の崩壊」などという言葉では納得できないものがある。政権側の何が問題だったのか、暴力や虐殺意外に改変の道はないのかと沈んだ心になる。でも、今日のわたしは、傍観者でいたくない思いがある。やはり、読書と述懐のおかげかも。(12/13)

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