詩:かなしみ
いつも講座やコンサートが近づくと、自分が金銭面でも精神面でも「限界状況」になっている。「このままではだめだ。何とかしなくては。」と焦りにも似た気持ちで苦しんでいる。それで、下記のような詩を書いて、やっと心の安寧を得られる。明日から、奇蹟にであるぞ、根源解決の道が開けるぞと、ワクワクもしてくる。どうかよろしくお願いします。
かなしみ
秋の日のヴィオロンのため息の身に染みてひたぶるにうら悲し(ヴェルレーヌ/上田敏)
高いセンダンの梢の先の金色の実を
美しい午後の秋の空に見上げていたら
もうさっきまでの結ぼれていた気持ちが
すうっと空に吸われて行ってしまって
かなしみの奥の、何か光のようなものが
輝き出し、身を包み、癒してもくれたので
それはそれとして、このまま生きて行こう
焦らず、悔やまず、落ち込まず、もう少し
あれほどの聡明と明哲の人が、老衰のためか、仕事が難しくなったとか
随分前からパーキンソン病で苦しみ、認知能力も衰えてしまったのだが
92歳のその人は、スマフォの操作もままならず、家にいるしかないと
今年のクリスマスまで持つか、と家族は懸念して、見守るばかりだとか
瘦せ細って、まるで別人のような、その人の写真を見て、かなしかった
まっすぐに老いのかなしみが、わたしの胸に広がってきて、さびしかった
そして、いったい人間は何のために生きているのだろう、と考えたりする
このままでは先の「たずき」がまるで立たず、困惑ばかりが続くのだろう
金銭や物質が満ち足りたとしても、老いを止めえず、生き甲斐とは別のこと
ましてや精神的な高さや賢さを追求しても、さびしくむなしいようにも思う
いくら精進しても勉強しても、凡人は凡人のまま、才能は天賦のものだろう
ただ、だからと言って野放図にも自堕落にもなりたくもなく、思案に暮れる
秋の黄色の日差し、榎や桜の黄葉は、かなしさを体にしみこませなぐさめる
身体の衰えも生活の困窮も、そして、才能の乏しさも、そのまま受け止めて
それなりに生きてこそ、優しささえ手放さなければ、いいのだと思えるのだ
そう、まるでマザーツリーのような大木のセンダンの梢の黄色い実のように