詩:「考える」
「考える」
よく考えて行動すべきだというが、具体的にはどういうことなのか
いったい、「考える」と「思う」とは、どう違うのだろうか
ある浪人生は、「考える」ことと「悩む」ことが一緒になっていた
なにを考えているのか!と叱られたら、たいていは「反省」を迫られている
だから、どうしても消極的、否定的にしか、言葉が生まれてこないのだろう
語源的には、「かんがう」が古く、それは、「かむかう」の音便化だとか
すなわち、「か」(住処、在処の「か」=場所)+「向かう」と分析できる
つまり、「存在の位置、方向を探る」という原義が浮かんでくるのだ
これからどうしたらいいか、どう位置付けるべきか、を探るのは必要だ
単に気持ちとして思うのでなく、冷静に生き方を決めていくことなのだ
みんな考えないで、「思い」ばかり口にしているからダメなのだ
また、難しい単語を知り、博識であることを「考える人」と勘違いしている
だから、いくらしゃべっても、会話の質は上がらず、対話にはならないのだ
考えれば考えるほど、分からなくなり、落ち込み、消極的になるのでなく
論理の筋を見据え、“抽象のはしご”を上下すれば、明瞭になり解決に向かうのだ
言葉を使って、論理的に思考することによって、人類は文化を築いてきた
市民革命や産業革命を起こすくらいの知恵と技術を駆使してきたのだ
しかし、資本主義は限界になり、「思考」は「商品」にならないからか
すべては金銭的価値に置き換えられ、論理も理屈も無駄扱いになっている
悩むのでなく、肯定的に、論理の筋を追いかけ、考えた言葉を交わしたいものだ