詩集「麗花」から高句麗の旅語り
先日、早朝に目が覚めた日、綴じていたこよりを切ってしまってバラバラにしてしまった詩集「麗花」の本を、再び和紙でこよりをつくり修復して、お店に展示しました。小さな事だったのですが、置かれた本の佇まいが、たまごが内から光っていてポンと置かれているようで、トキメキました。午後にいらした方が、コーヒーをいれているあいだに、詩集を手にとってくださって「男は男に 女は女になれ…と言った人」という麗花さんの言葉に感動され、「今日、この言葉に会うために、ここに来たんだっておもいました。」とおっしゃってくれました。「麗花さんの言葉をお友達にも見せてあげたい」とも言われ、早速DVD「麗花」の上映会をすることにしています。
ありがとうございます。
そして昨日、東京高麗屋の地下「高麗恵子ギャラリー」でのビデオ講演会生収録に参加しました。お話しをおききしている時、丸都山城の山々にかこまれ扇状にひろがる地と空が心にもひろがります。山の向こうにいる人々の魂の声がこだましていることをおききすると、みぞおちあたりから、ううっと何かがこみ上げ、涙がこみあげました。「山の向こう」に行ってみたいです。又、集安の広開土王のいらっしゃった地に高麗恵子さんがたたれた時の空気感や風、風をよむ王がまさにそこにいらっしゃると感じ、地下ギャラリーから空のさらに先までも時と場を超えて、高句麗の旅をしました。木津川の紫陽花のお花のお話しの時にも高句麗人が高麗さんの居るところをいっぱいのぞきこんで地下にあつまってきているように感じ、こういう時私はとっても楽しく、満たされているということもわかりました。すっかり「足を洗う」ことができてなく、取り組みたいことが後回しになっていることもよくわかりました。ありがとうございます。