言葉を“刃”に
SNSによる誹謗中傷がもとで、若い女性が自殺してしまったらしい事件、真偽不明の情報拡散か、言論弾圧か、トランプさんとツイッター社との紛糾などがあり、「言葉を刃にさせぬため」(5.27.朝日新聞)の言論が活発だ。社会に閉塞感や不安が蔓延していると、どうしても言葉だけが過激になり、人を傷つけてしまうことになりやすい。あるいは、個人の「結ぼれ」が無責任な言葉の暴力を生みやすい。わたしも何度も、わけのわからない中傷にさらされ、意地悪く揶揄された経験もある。そのときは、実名でものが言えない卑怯な奴、無責任な言動しかできないバカ者と思って、むかむかしていた。また、ラインでもフェースブックでも、たとえ発信者が分かっていても、言ってることがさっぱり分からないし、論理にも理屈にもなっていない物言いに腹が立つことは、いつものことだ。
ただ、だからと言って、「言葉を刃にしてはならない」とは思わない。言葉は、いつも切れ味のいい「刃」であってほしい。包丁一つでうまい刺身を創る和食の伝統ではないが、日本語には、うまい言葉の使い方の伝統がある。決して、鈍い鈍器で断ち割るようなことはしない。包丁にも、いろんな種類があり、みんな時と場合で使い分けている。日本刀だって、戦いで人を切るだけではなく、目に見えない悪を払う力もあるのだ。言葉が鈍いから、人を死に追いやるのだろう。ちゃんと言葉を使わないから、論理にも知恵にもならないのだろう。日本語は、何も情緒的な言語と限ったわけではない。情緒から智恵に至る、うまい表現を内蔵していると思う。(「命を救うべき道筋が論理」と、いつかの存在論で先生は教えてくれた。)要するに、いつも言葉を磨いて、鋭い「刃」にしておくことが必要だと思うのだ。
主語が抜ける(実名を避ける)と、述語が独り歩きしてしまったり、その言葉の「内包」(概念)にブレーキがかからなくなる。だから、誹謗中傷の言葉は相手も傷つけるし、自分もだめにしてしまう。注意した方がいいが、そもそも「誹謗中傷」より、自分の気持ちをうまく言えなかったり、怒りなのか、不安なのかさえ分からないほどに鈍い言葉(刃)を使ってるから問題のだろう。その時々の心の動き、気持ちの波立ちを、うまく切り分けるようなよい「刃」がほしいものだ。