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言葉は他者か


 「自分の口で言えよ!」ならまだわかるが、「自分の言葉で語っていない。」と批判されると、ちょっとわからなくなる。もともと言葉は他者から教えられたものだし、社会的に継承されてきた文化の一形態なのだから、自分の本質にもともと備わったものでないからだ。言語の習得によって、人間として生きていけるのだから、言葉は他者そのものではないか。「自分の言葉」なんて矛盾ではないか。他者の言葉によってしか、自己表現できず、自己を見出すことができないなんて。しかし、自分勝手な言葉を勝手に言立てても、これまた他者には通じず、狂人の仕儀で相手にもされないし、言葉なんて邪魔なだけだ。
 それでも、「自分の言葉」で語るべきだとおもっている。先日、オノマトペの本を読んだが、その中に「言葉の接地」性が重要だということが書いてあり、それはその通りであると思う。
    言語という記号体系が意味を持つためには、基本的な一群の言葉の意味は、どこかで感覚と接地(ground)していなければならない。   
                                                   (中公新書『言語の本質』)
 感覚、つまり気持ちとつながっている、つまり「本音」ということだろう。しかし、これまた欲望や憎悪とは違うから厄介だが。若い時、40日くらいアメリカ旅行していて、かなり英語が話せるようになって、かえってノイローゼに陥ってしまったことがあった。サンフランシスコで日本人街へ行き、秋刀魚の焼く匂いを漂ってきたときの郷愁のような心持ちをそばの人に語れなかったのだ。これでは「英語は知っている」であって、「英語で話せる」ではないことと思った。(外国語には関心があるが、あまり好きになれない。日本語も、九州弁や琉球の言葉には違和感を覚える。因みに。わたしは東京生まれ、関西育ちでだが、どちらの言葉にも少し距離がある。「他者の言葉」のようだ。)
 そうすると、「自分の言葉」とは、他者から注入された幼児期の言葉体験から始まって、学校教育や読書や文化的行動を通して身につけた、個人的な匂いのする言葉ということかもしれない。だれかの言葉の引用や、抽象度の高い術語や、流行りの外来語、さらには学術用語や専門語などではなく、さりとて幼児語やオノマトペや慣用句とも違った言葉であり、それこそ「地に着いた」言葉ということになるかもしれない。しかし、思いや希望は、どうしても抽象的ないなってしまう。自分という具体的実存から離れて、他者との共存共感を願うから仕方ないことかもしれない。
 先日も、国語教師として、「生きる力、愛に届く言葉を産み出していくファシリテーターでありたい!」と書いたところだった。そして、それがどうも「自分の言葉」になっているかどうか、気になっていたので、ちょっと補足したかった。(2024.8.15.)

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