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言葉の病


「もう一人暮らしは寂しくてたえられないかも……」

一浪して、やっと京都の大学に行くことが決まったAが会いに来て、開口一番そう言ったので、もう呆れてしまう。まだ、下宿暮らしはやっていないのだ。そして、「地元の友だちとも別れたくないし、通って通えぬこともない距離だし……。」と逃げ口上も用意している。つまり心配ばかりして、自分の選択を揺るがしている。「まだやってないうちから、なぜそう決めこむの?」と言っても通じない。

また、友だちと酒を飲んだことを話し、ちっともおいしいと思わなかったとか、まだ20歳じゃないからいけないことですよねとか、えらい失態ごとのように話す。勿論わたしが飲ませたわけではない。ちょうど西宮神社にお参りしていたので、「甘酒を飲もうか。」と持ち掛ける。「えっ! 酒は……。ノンアルコールと書いてあるか。初めてなんですよ。」とAが戸惑っているのがおかしかったが、一口飲んで、「おししい!」と言ったので、気にも留めなかった。ところが、店を出て、10分ほど歩いていたら、急にかれがもどしたのだ。「うわっ!吐くなんて!始めてですよ。」とAが騒ぐ。

Aは、かなり重症の「言葉の病」なのだ。「独り暮らし」と言えば、即「さびしさ」であり、「酒」とあれば、「酔う」とか、「いけない飲物」とかに、体ごと反応してしまうのだ。ほかにも、予備校の模試で「A」判定が出たから、合格間違いなし(事実は不合格が続く)だし、「偏差値」が高いから国語は得意(あまり向いていないと思うが……)だし、「○○大学」へ行けば文学ができるようになる(どういう根拠なのかわからないが)のだと、全く「言葉」に取り付かれてしまって、「現地・現実」が見えなくなってしまっている。

「地図は現地ではない」というコージブスキーの「一般意味論」を持ち出すまでもなく、「言葉」の固定的な意味に振り回されて、「正気」を失い、「狂気」に近くなってしまっていることに、わたしは言葉を失ってしまった。よくてドン・キホーテ。本を読みすぎて、虚構と現実の境が見えなくなってしまった。「偏差値」とか「大学名」とか「文学」とかというレッテルにだけ反応してしまう。酔うはずのない「甘酒」に酔ってしまうのだ。

高校二年生の時は、もっとキラキラした感性を持っていて好感が持てたのに、「受験」のために狂ってしまった。あまりにも分かりやすい事象に、本人も慌てていたが、どうしようもない。わたしと一緒に学び直せ、と言いたいが、もう大学生になったのだから「塾」に通う必然性がないのだ。「しばらく本も読まず、言葉から離れて、家で甘えていたらいいよ」としか言えなかった。「勉強はしたいのですよ。」「今は勉強しないほうがいいよ。」――やはりかれとは言葉が通じない。わたしに会えば落ち着くのだそうだが……。

かればかりでなく、「言葉」だけに反応して、真意を曲解したり、勝手に感情的なったりする人が多い。いつも「記号」と「事物」と「行動」とを考察しなければならない。3/31

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