言葉と意識
言葉と意識
オグデンとリチャーズの「意味の三角形」が、「言葉の本質的機能を説明する際の重要かつ根本的な誤りがある。」と教科書の指導書にあったので、ショックを受ける。まるで天動説から地動説が正しいのだと知った人のように、わたしには「コペルニクス的転回」なのであって、未だに頭は病気になっている。
言葉が先か、事物が先か。どうやら「初めに言葉ありき」が正しいらしく、「言葉と無関係の状態で、対象物・指示物を認識できるとした点」が間違っている。「宇宙」も「リンゴ」も言葉があって思考対象になるのだ。混沌を分節化するのが言葉の本質であって、「指示機能」だけではないのだということ、「言語記号が存在すると同時に、その指示対象もうまれるのです。」と言われても、じゃあ、「ふらふら」とか、「どきん」とかのオノマトペは、どうなるのか、人間以外の動物たちの言葉の場合はどうなるのか、と疑問が次々と出てきてしまう。しまいには、「世界の認識は、全て言語だけによるとは限らない。」となって、これまでの記号論的知識がぐらぐらになってしまうのだ。わかったふうに、「言葉は大切だよ」と言ってきたことが恥ずかしい。勉強不足もいいところ!
そして、「意識」についても、わからなくなってしまったのだ。出口治明氏の『逆境を生き抜くための教養』(幻冬舎新書)を読んでいたら、「人間の自由で主体的な意志が先にあって、社会が設計されるのでなく、逆に、社会の構造が人間の意識を形づくる」と、構造主義の説明があり、最近の脳科学や生物学などでは、「人間には主体的な自由意志などないと考えられています。」と、自由意志も虚構に過ぎないとある。「あらゆる行動の結果は偶然の産物?」とまで言い切っている。「そもそも自由意志や責任といった概念は、社会を成立させるための虚構(知恵)にすぎない。」「だからこれまでの人類の歴史は、運と偶然によって「進化」してきました。」――「運と偶然」が大きいことは理解できても、個人の意識まで、その主体性を疑われては、生きる意欲まで失くしてしまいそうになる。
ただ、風邪が良くなってきたように、頭の方も、大分回復してきた。林成之著『脳に悪い七つの習慣』を読んだからかもしれない。「脳は気持ちの持ち方や行動次第で、その働きを良くも悪くもできるのです。」つまり、否定的感情や思い込みを避け、極端な「効率優先」を避け、好奇心と共生に生きればいいのだということ。(「生きたい」「知りたい」「仲間になりたい」の三つが脳神経細胞の本能だという。)そして、これまでの人知を越え、「大いなる存在」と一つになるように生きればいいのだ、と考えられるようになった。言葉についても、意識のついても、まだまだ勉強していかなくては、とも。(2023.6.14.)