見直しの春
本日は東北センターの応用コース、存在論、ビデオ講演会に参加させていただきました。昨日の死についてとビデオ講演会ではフラフラになる衝撃で、ビデオ講演会では、お話をされる高麗さんに、自分の中にある母親を始め幼稚園の先生方や先輩方(自分が年少のときの年長さんのお姉さんたち)に代表される女性に対する業を投影していると感じました。高麗さんそのものがクリアに入ってこず、かわいい、かわいいと言いながらなぜか私のやるべきことを代わりにやってしまう、何かを穴埋めしようとするらしき女性達を投影してしまい、窮屈でとても苦しくなりました。でもそれが投影であると自分で気付いていたので、命の中で「窮屈!狭い!」と叫びましたら楽になりました。続く本日は、新芽のように優しく芽吹く、体内が柔らかく膨らんでいく、小鳥のさえずりのようなピアノの音から始まりました。講座の中でもお話があった糖質は、私も取りすぎの自覚がありまして、気晴らしやイライラを解消するために流し込むように飲食してはいけないなぁと素直に感じました。「~してはいけない」ということではなくて、もっと素直に、柔らかい体を壊さないために、大切にするためにしみじみと感じ入りました。自分でノーマルだと思っていた自分の「動かない」状態は「魔」が入っていることだったのかもと、そうに違いないという視点が生まれました。「魔」の入った動けない状態が当たり前すぎて、本当の人間本来の「動き続ける」というノーマルが最初からわからなかったのではないかと。存在論では「自我がちゃんと育っていない」というフレーズにすみません、と申し訳なく感じました。心から嬉しいことがあったときに、私は恥ずかしくなります。例えば何もないところで転んだり、スカートがめくれて下着が見えているなど、明らかな失敗を人前でしたりすると人は当然に恥ずかしいものです。しかし私はそういうことがなくても、嬉しさや優しさを感じると恥ずかしいのです。これは自我がちゃんと育っていないことだと考えました。なぜならありのままの感性でものごとを感じ受け容れ咀嚼できていないためです。どうしてそうなったかという過去はどうしようもないので、ありがたいこと、嬉しいことは素直にそのまま受け入れ素直にありがとうを言えるるようになることを考えます。
糖質のお話があり、私の中では「頂きものであれば、糖質も炭水化物も多めにとって良い」という謎のマイルールが長年ありまして、しかし結局そのように食べていると、自分で購入するハードルも下がっていってしまうので、このルールを見直すときと考えました。頂きものなのにあれも食べない、これも食べないとしていたら人柄が悪いと考えていましたが、それを理由にして魔の入りやすい食生活への誘惑を受け入れていたといえます。確かに眠いですし、だるいです。それでも、「自分なんてもともとそんなものだ」と考えていくので、勿体ない限りです。
盛りだくさんの気付きとモリモリ内面の変化を頂戴いたしましてこの度もありがとうございます。もっとこの経験を活かし環境も状況も変えていきます。