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自重自愛


「愛」を「継続」するとはどのようなことか、体得しようピアノの音に浸りました。自分を大切にすることとは、また、普段の生活において習慣に「甘んじる」自分は自分を大切にしているのかと考えました。留まることなく一日を満たすには、自分の中の答えは、「人と会う」ことに至りました。人と会うことで、自ずと自分を律し、その方に失礼のないよう準備もすると考えた次第です。自分を大切にすることを言葉では何と言うのかと、自分の中で知っている限りの言葉を探したところ「自愛」と浮かびましたが、後で調べ「自重自愛」がありました。自分を本当の意味で大切に出来ることは、他者他人をも同じに大切にできる人間であると考えるところです。アナウンスでの「蹂躙」は初めて触れる言葉でしたが、ホテルに帰り調べると、子供の頃より言いたかった状態はこれだと感じ、このような言葉があったとは知らなかったと驚いたところでした。ですので、自分を大切にするのにもまた自分にとって新しい、相応しい言葉があるのではないかと感じております。第一部での「非礼」は、自分、現代人とわかります。先生、高麗さんにも背く、または失礼ですが、軽んじる状態は、そのまま自然、宇宙にも背き侮っていると、自分の中では感じて拝聴しておりました。一方、本来の人間性や自然、宇宙との関係を非科学的と片付ける輩の頭はゴマ粒ほどにちっぽけで、どれほどに低次元かと、またこんな頭に支配された社会に生きてきたのかと、高次元に触れれば触れるほどに痛感します。先日、1990年代に憲法第14条を引き合いに闘った女性をゲストにした番組を偶然見ました。女性は「物」で男性よりも劣り、能力あり働く女性は生意気と思わる時代でした。自分が社会に出た時のことで、こんなにも女性差別がまだまだ色濃い状況だったのかと改めて理解しました。そして自分も「女らしく」あることが正しいことと洗脳されていたと感じ、もしこの裁判の場にいたら自分も風潮に流され、普段「差別」に憤りを感じていたにも関わらず加害者になっていたのではないかと振り返りました。その方は勝訴し、初めて日本に「セクハラ」という言葉が使われるようになり、社会に変化の兆しが生まれました。その方には感謝の気持ちが湧きます。人間はまだまだ「人間」ではない説を伺いましたので、私たちは未熟な人類の成長過程と受け止めます。コンサートの終わりに、仙台は、古の奈良京都のように海外に通じている場と思われたのが、新しいアリランか、私には中東などの外国が思われたからです。昨夜のコンサートでは様々なことを感じ、書き込みに書こうと考えておりましたが、ほとんど忘れてしまっております。すぐに記さないとと次回を考えます。本日も応用コースがあります。よろしくお願い致します。
ありがとうございます。

田嶋利江子

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