自覚
自分の中の死霊が剥がれ去っていった体感と前後して、先生から学ぶ、教わる、という観念がはずれたことを解る 先日の 語る会とビデオ講演会でした。「魂の目覚めは 惑うことのない自覚を意味し、教えられ教えたりすることと全く違います…」と高麗さんの御声で語られた、いだきしん先生・武蔵野コンサートのメッセージがずっと胸に残り 盛岡に来ました。自分がそれまで どこか学校の先生に学ぶように いだきしん先生の御言葉も高麗さんの御話も聞き逃すまいとしていた状態が枠を作り、退屈な自分を作っていた。先生の御言葉を耳ではなく身体で聴く、と解ったつもりでいても かつての学校教育の癖の中に埋没していたのだ と気付き、コンサートで開放してくださった後々遅れて自覚し、頭を覆う もやが取れました。語る会 である方に先生が 「なぜここに来ているのか」を問われ、 未来動く為に今学んでいる旨の返答をされた時、これが昨日迄の自分だった…と冷汗が出ました。真に学ぶ、ということは学ぶ側の表現、行動ありきで初めて意味を成す。コンサートチケット販売の意味深さを改めて感じます。
ジェンダー講座にて伺った、中世以降に編纂された「ヨハネの黙示録」が人々に浸透し今の世まで男女の倫理のベースになっているが、この黙示録に書かれている真の内容は実は全く違い、編纂者の独断での加筆により真逆に書き変えられた。この事実に 多大な衝撃を受け今も居りますが、殊さら倫理のベースという御話が腑に落ちました。原罪。自分は不浄であるという観念が子供の頃からあり、不浄だから純粋でありたいと願うが叶わない、と思い続けていました。小学四年の時 毎週 ’詩’の授業があり、不浄な自分を綴ったこと、自分の創作する詩・歌詞にはテーマのように不浄な私、という言葉を用いていました。自分が知らない内にキリスト教が作り上げてきた倫理観が根付き後の男女関係にも影響を与え、不浄である自分を貶める癖は未だ残っていると解ります。「ヨハネの黙示録」の元のギリシャ語を正確に辿り真の内容を明かにされた、田川先生翻訳が日本語でそのまま読める日本人は恵まれている、と いだきしん先生の仰った一言が響いています。真実を読み紐解き、自分の長年の間違えを乗越えていきます。ありがとうございます。
そして昨日の北上コンサート ありがとうございました。高麗さんの書き込みに書かれていた「後頭部をつかまれ動かされてきた跡」がずっと殴られたように痛く朦朧とし、盛岡に戻りました。解らなければならないこと満載です。本日の東北センター、心して伺います。いだきしん先生、高麗さん、真にありがとうございます。
岩村ゆかり