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自分で考える力


「少なくとも我々のいのちは何が善なのか生来わかっています。・・・」この一文だけでなく、いだきしん先生からの昨夜のメッセージ(全文)は 中学生の頃に「性善説と性悪説って一体どっちが正しいのだろう?」とか、その後「どっちもどの人間にもあるようだけどその決め手は何なんだろう?」とかの疑問をどこかに置き忘れ、引きずったまま今に来てしまったことの答えがはっきりしました。そして真・善・美という言葉が自然と浮かび上がります。プラトンが理想とした世界とのことですが、私にとっては「真」はあらためて言うまでもなく いだきしん先生がずーっと前から伝えてくださってきたこととして理解しています。

特に最近の連続演奏にて絶え間なく真の愛を経験させていただいています。「死にゆく頭」は真の愛に繋がることで「先を創る頭」と変容しつつあります。だからこそやっとのことですが、いのちにはたらく様々なちから(善も悪も含めた様々なちから)の中から、生来わかっている善を成育していく「聖なるちから」を理解できる生命になってきたのでしょうか、と推察致します。いつも先へ先へ行くための経験の場をありがとうございます。「美」に関しては先生のコンサートでのお姿、高麗さんからお聞きする先生の普段からの生きる姿勢で身近なこととして理解しています。

とは言いつつ、コンサート中は未だに余計な力がはたらきます。最近は「疲れたら働く」との言葉が再々蘇ります。先生と出会えた当初からよくお聞きした言葉です。実は10数年前に東北のある中山間地の田圃で80歳半ばのお二人の農家の男性の会話で実際にこの言葉を聞きました。ひたすら田んぼを起こし、耕しているともう駄目だ、休もうと思うほど大変な疲れが出るけれど、そのような時は休まずにもっと働くんだ。すると身体はもっと力が出るもんだ、ということをとてもやさしーい方言でニコニコしながら語られていました。力を出し切った人間の身体が体得するある状態であろうとピンと来たのは確かにかつて先生からお聞きし、実際にそのような経験を積み重ねた時が私にもあるからです。日々、力を出し切っていけばコンサートの理解力も変化すると今は考えます。

武蔵の五輪書の「構えあって構えなし」「太刀を取ればなんとしても相手を斬るという心である」などの教えは、先生が講座で伝えて下さったように一貫して人を斬るための奥義のようですが、その姿勢は熟慮断行、必ず目的を果たすための戦い方です。生来の人間性、生来の身体の神秘に目覚め、自分で考え、行為、行動することで一歩一歩確実に善なる目的遂行に向かう道が見えて来ました。孟子や荀子からプラトン、東北の農家のじいさま達、二刀流宮本武蔵へとリレーしながら自分で考える力がついて来ているのは全体の存在 いだきしん先生からの実践的学びのお陰です。いつもありがとうございます。



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