肌寒くなりました京都です。
昨朝京都へ到着し仮眠を1時間とった後、ある教会へ向かいました。先日飛び込みでお話した女性が会合のみんなにも聞いてもらいたいと昨日責任者とお会いすることになっておりました。「パリサイ人」はこんなかもしれないと感じる反応で、他の方々へのお伝えする機会はありませんでした。しかし何かいつも気になってしまう教会です。マリア様像が入口にあるので、それで気になるのかとも感じますが、また何か機会があればとアプローチをしたいと考えております。更に、どうしてもコンサートに来てもらいたい身内に京都コンサートの案内を送ったのですが、むげに断られてしまい、どうしたら来てくれるのだろうと憤りと頭を抱える自分で、また自転車も後輪がパンクしており、何かと残念が重なる一日でありました。一昨日となりまいしたが、コンサートでの「prudence」。初めて耳にした言葉ですが、現実の捉え方に甘えがあることは大いに自覚あることで、自分に必要な演奏と感じられました。頭の改造がされているのか、気が付けばコクリコクリとする自分でしたが、ある時からシャキッとし身を正して拝聴しました。しかし、その翌朝は上記の有様で、自分はあれほどの解決をして下さっているのに「わかってもらいたい」と稚拙にも強く感じる自分の不甲斐なさのような、演奏の体感が身についているのか霞を握るような感覚がありました。ですが、ビデオ講演会を拝聴し、背筋が伸びるように自分にも成長している芯があるように感じられました。また「地母神」では、領土、境界線など、やはり人間の傲慢さが世界中に蔓延してしまっている現状に申し訳ない気持ちとどう解決できるのかと途方に暮れる感に始まりました。また地球は多種多様なものが形となりこの地に集結している希なる惑星ではないかと感じられ、そこにある本来の人間の存在は何ができるのだろうと考えるところです。演奏中、美しい光景が目の前に広がり、光が満ちる「高句麗の地」がそこにあり、古の高麗人が今まさに生活する様子があるように感じられ、宇宙と繋がる地に生きる人々の明るい命の輝きそのままの生活を垣間見たように感じられました。「キラキラ」と言う言葉しかない感です。実際の演奏とは違うかもわかりませんが、ここがまたprudenceではないのかもわかりません。
本日より京都コンサートへ向けての国創り行商活動が始まっております。
よろしくお願い致します。
ありがとうございます。
田嶋利江子