“老いという冒険”
昨夜、買ってきたDVDを見て、つまらないと思いつつも、意地汚く最後まで見てしまい、1時半まで。それで5時間も寝られなかったし、高校の授業をうまくやれて、元気と疲れを同時に感じたからか、夕方事務所で一時間半ほど寝てしまった。4月に78歳になったと意識してから、ひどく「老い」が気になってしまっていた。ちょうど体調も悪く、少し歩くと足が痛み、少し無理をするとやたら疲れ、体重も落ちて、”高齢一人暮らし”であることが、何か人生の失敗のようにも思え、「何とか若さを保ちたいもの!」と苦慮していたのだ。
ところが、たまたま見たTVで、上野千鶴子さんがボーヴォアールの『老い』を取り上げて、講演しているのを知り、早速その冊子を購入、通勤の行き帰りに読んで、目から鱗の体験をする。「老いても若々しくいきましょう!」などと口にすること自体が、フーコーの指摘するような、セクシュアリティの中での発想でしかなく、生殖機能の減退は無性化とは関係ないこと、老いた人間を厄介者廃棄物扱いする社会文化にはまっていないで、実存主義的に「自由」を追求すべきであるとわかった。ちょうど山歩きが冒険を楽しむことの意であるように、”老いいう冒険”を生きるべしと思った。
人に迷惑を掛けたり、サポートを要求したり、同行を願ったり、あまり歓迎されないかもしれないが、なに構うものか、死ぬ直前まで、やりたいことをやっていこう。新しい「言葉エクササイズ」を思いついた。「一人称として書く」――つまり当事者の視点に立って書く練習だ。他者のことではなく、自分の問題として、「わたし」の理由を語るのだ。