美しい
内面に溶け込む美しい音は、渓谷を流れる急流のようであり、時には静かに染み入る雨の気配がするようでもあり、風が揺れ、可憐な花が咲き、清らかで、その美しさに溶け合いながら私の胸の痛みは溶けていきました。問題をつくるのは常に人間同士であることを考えていました。自然災害のようなことが起こったときも自然が問題を起こすのではなく、人間同士の問題であることを考えていました。自然と溶け合う生命は内と外の境界線がどこにあるのか、自分の中に水が流れているようで外から流れ込む水に清められまた内から外へと循環しているようでもありました。胸が固くなって痛んでいることだけが悲しいと感じていました。新しい生命が地球に生まれ、決して過去に人間が作った世界に染まることなく、新しい生命を活かしてほしいとどこからともなく願う気持ちを受け止めました。親の生きたようには生きてはいけないことを感じました。新しい生命が誕生していることを知らない大人たちが同じことを繰り返し続ける反自然的な姿を改めて認識するのでした。何十年にわたり同じ学校で同じ授業を繰り返している先生方の顔が浮かぶのでした。母が通った学校に私も入学し、母が習った先生に私も習う運命でした。20年たっても30年たっても、子供たちの生命の光が変わろうとも、何も変わらない教育、教師陣であることはその校風から身に痛いほど感じるのでした。先の閉じた不安より感じられない学生時代のことをまざまざと思い出していました。いだきと出会い、固く閉ざされた世界に風穴が空きそして抜け出せたことは奇跡を見るようです。高校を辞めることになるとは、私も含め誰一人として想定していませんでした。しかしそうせざるを得ない状況となり、高校2年の秋、学校を辞め、まるで牢獄から解放されたかのような新しい一歩が始まりました。今、すでに内面には秋の木の葉が彩り、また一歩先を開くことを待ち望んでいました。
源はいだき、先生の存在と感じるのでした。源とつながるとき、皆の生命とつながりひとつであることを感じます。この世で言うつながりとはまるで次元の異なる世界でした。幸せの時、また健康な状態で生きていくには、この源とつながる生命を生きることと感じました。自分を対象化し、自分を説明しようとする意識が曲者で、そうではなく自分がなんであるのか気持ちを表現して生きていければ、まだ見ぬ未知なる環境がつくられていくと感じました。本当に美しいピアノの音が鳴っていました。
心よりありがとうございます。