素通しの空間で
東北の方の持つ「ある感じ」の理由がやっとのことで、とても良くわかる出来事に出逢えました。自分も東北人ですが、その「ある感じ」は自分の中にはそれほどない気がしていて、どうしてなんだろうと考えていました。私だったら絶対に許さないけどね、と思うような出来事でも許そうとしている方を見て、こんなに優しいから、「ある感じ」を持つのだなとわかりました。その「ある感じ」とは、「ちゃらちゃらとした誘惑に乗っていかない、生真面目で芯の通った感じ」とでも言いましょうか。きっと感性良く、感性が良いということは、全てがそうではありませんが「受けやすい」とか「取られやすい」ということにつながる場合も中にはあるので、よりその感じが強まるのだとも体でわかりました。その懐深さに、大した目にあっていなくてもちょっと不快に感じたくらいで「絞めてやる」などと思う自分は、心狭いのかなとも少し思いました。私は、悪い意味で都会や社会にかぶれているようなところがあって、そこに「ある感じ」を自分には少ないと感じる理由があると結論を出しました。東北は簡単に足を踏み入れてわかった気になってはいけないところだとも感じました。そういった芯の通った中身の優しい東北の方に限らず、いだき講座を受けていれば命の光のままなので誰しも感性良いはずで、そういう意味では自分もいだき講座を受けているので、素直な命に立ち戻り純粋に強く生きていこうと意思を持ちました。
「時間は存在しない」ということについてのアリストテレス、ニュートン、アインシュタインの考えを元に書かれた本を読みました。雪掻きをしながら、人間として生きつつ「標準時」に合わせることの無理さを痛感しました。標準時に合わせているから、標準時が標準でない地方はどんどん貧しくなっていくとも感じました。それぞれの体内の時間があるのです。その大切な内面を捨てて標準時に合わせようとする半端な田舎者は自滅するとわかってしまいました。自分たちの内面を突き詰めるしかないと、しんしんと降り積もる雪の中で白く埋もれた軽自動車を掘り起こしました。雪を飛ばす機械で車の車高より高く積もった地面を除雪してくれた、近所のお顔の丸いお父さんと、同じお顔の双子の小学生にお礼を言いました。冬休みに入ったこどもは、お父さんの横にいるだけで元気です。3人同じお顔で、防寒着がさらに丸みを出し可愛らしさを増しているように見え、長靴に入ったり手袋から染みる雪の冷たさを忘れ嬉しい気持ちになりました。