究極の共感の発露
共感ということで言えば、いだきしん先生の人生、生き方ほどこの世に共感することはないというのが30年前からの私の結論です。この数年間に表現いただいたコンサートメッセージの全てが先生ご自身で語られる「新しい いのち」として誕生された想像を絶する、いえ、安易に想像することが失礼にあたるほどの、人類史上初の人間として生きてこられた壮絶で荘厳な人生の軌跡で、愛に満ち満ちたお人柄、成そうとされている「あること」の全てに全面的に共感致します。「あること」は何かは想像できませんが、「あること」をされようとしていることに圧倒的に共感致します。
で、村人がどうこうとかコミュニティがどうしたのとか、いつまでもぐちゃぐちゃ言っているのは、自分の人生で何をするのか?を問うと答えはないからです。仕事の仕方として目的や目標を定めない、その時、その時代に必要なことをやっていくのは、実存を生きる先生の人生として理解できますが、自分という「いのち」がやっていることは、いざ、先生が何か動き出される時にいつでも動ける準備をしていることです。そのような事業や仕事を常に目指してきました。しかし、極めると自分の好きなことや、やりたいことは特になく、先生がいざ動くときに動ける自分であることが最もやりたいことです。その時に何をするのかはやはりわかりません。この自分の状態は長い間主体性がなく、自律など程遠いと考えていました。かといって先生に依存しているとも言いきれないとも感じるのです。
かつて気持ちが自然と生まれた「先生のことを表現すること」もやらないままに来ているのですが、やっと動き出せる状態になってきました。そのために繋がると判断してきた「この世のこと」は仕事として継続はできていますが、人類史上初の人間であられる いだきしん先生のことを表現する力は未だ未熟というしかありません。少なくとも自分自身が「いだきを伝える」前に「いだきで生きる」実践を重ね、想像や空想的で空虚な表現ではないものに成っていかないといけません。実存を探求し、光を見出せないと不可能とわかります。先生ご自身が語ってくださった下記のメッセージが今はその可能性の光を求めて向かう羅針盤となっています。
「光満つ」
「光満つ。発生する新しいいのち。かつて光満ちるところに社を建て種々様々集まり、統合して皆で生きる道をつくりました。その結果として縁結びの神の名称を得ました。新しいいのちは胎児の頃より多く集まり傷つきながらも誕生し人生という荒野に投げ出されます。胎児の光は縁結びの神ではないが故に多くの問題を解くべく荒野のような世界の中で真実を見出します。光満つる真実を見極め、さらに光満ち「愛」に目覚めます。」
「実存の可能性」
「実存は観ることはできません。私は実存において他には依存しません。自分のことを自分で決めるといいますが、これは自分を観ることができないがゆえに実存そのままあらわすことが、自分で自分のことを決めるということになるのでしょう。私は実存です。ゆえに「実存の可能性」が私が生きることです。他者との関係においても関係を優先しては関係は豊かになりません。」
全てのメッセージに共感していますが、この二つのメッセージが いだきしん先生ご自身によって語られた具体的表現として、とても身近に感じます。このメッセージで理解するいだきしん先生の存在を「個人を抜けたわたし」の存在が何らかの表現をしていくことを構想し、この数ヶ月間はずっとそこを課題としてコンサート、講座、そして自分自身の人生の重要な実践を重ねています。ご迷惑をおかけしないためにもやることをやり、「いのち」を最後まで生き切る。途中で少しでも停滞するというようなことは金輪際できません。そのために一旦出直す決断もして、今日まで来ました。準備ばかりしていても仕方ないこともわかってますが、意志は自然と、とても柔らかくて強い「いのちのちから」を育んできているのを感じます。いつも尊い経験の場をありがとうございます。