“神ともにいまして”
胸というか、体がというか、共鳴したようにビリビリしているのが分かる「高句麗伝説」二日目だった!「応用講座」で、そばに「神」がいてくれているような幸福感があり、一人安心していたが、「覚悟して臨む!」と先生がおしゃっていたので、実は何が起きるのかとドキドキしていたのだった。しかし、一日目の高麗先生の桃の花のお姿と、明るく澄み切った音響に、もう世界も自分も春爛漫、「癒し」よりも「活気」がつぎつぎに湧いて、やる気満々だった。今年こそ、「国語塾」としての新展開が図れると強く思えた。このところ一生懸命やっている自覚もあり、それを応援してくださっているようにも!そして、昨夜は、そう言葉にはならない高揚に包まれ、体丸ごと茹でられているような思いもした。強いて言葉にすると、「こんな有頂天になっていていいのか!」「ここで酔っていて、ほんとうに世界が良くなるのか。」「ほんとうに自分も変革に行き、創造に参加できるのか。」と、Here &Nowを否定するような意識が頭をもたげるので往生した。古い頭から抜け切れていないというか、臆病というか、「冷静」というブレーキが間違って作動したのを感じた。ただ、「passion」というアクセルは、踏み間違えていない。いくら「高齢者ドライバー」といえども。なぜなら、「神ともにいまして」だから。
(この讃美歌が8音節の続きなのが面白い。先日の「よろしく」は4音節。七五調の唄や
呼びかけ句が多い中で、4とか6とか8とかいう音数律に注目している。)