真の音楽
一昨日の「存在論」で、いだきしん先生の新しいアナログシンセの特徴と成り立ちについてを伺い、従来の ピアノに代表される「音階」に限定されない、倍音を含んだ音の推移を表すことで 音と空間が一つになる、先生の音楽を追体験しました。自然界の空間をそのまま表し万物を癒す、いだきしん先生のサウンド。ドレミの音階に限定された音楽は 後世になって人が作ったもので、制限された音階の世界だけで作られた音楽は、本来の音楽とは言えないのだとすると…?と、先生が話してくださることを自分の理解の範囲のみで聴いて、従来の音楽を表現し 仕事にもしてきた自分は混乱しました。かつてインプロ(ヴィゼーション)だけ演り続けられることを願っていた時期もありましたが、基本は 旋律とリズム主体の中に居りました。一昨夜、音楽に関わる全てを絶つ前に、先生に 機会を見ていつか メロディ(旋律)についてを伺わなければならない、と思い詰めました。なぜなら、この世で メロディを特定し作曲された楽曲が「音楽」のメインとなってから 音楽が本来の力を失い、空間と交ざり合うどころか箱に閉じ込められるが如くになってしまったのではないか、と感じたからです。昨日の高麗さんのビデオ講演会の後で、先生が 特別講義のように 新しいシンセについてや 二日間の 高句麗伝説のことを御話しくださり、何かある?と言ってくださったので、意を決してメロディのことを伺いました。先生は、メロディは記憶だから、と一言仰り 腑に落ちました。ワーグナーが 嘗て戦意を鼓舞するために戦争で使われた御話もあり、ベトナム戦をモチーフにしたコッポラ「地獄の黙示録」の一場面、そして以前 先生から「ニーチェがワーグナーを捨てた」と伺った御言葉が瞬時に蘇りました。自分の思い詰めていた状態が解け、自分がしていくことが見えてきました。続けて自分が 盛岡・高句麗伝説で 先生のトラックとリフに震えるほど興奮したのは、先生の仰った「特定の音楽に嵌まる」という状態なのでしょうか?と伺うと、それは違うな、と。『今回の高句麗伝説の音楽創りは、まず五女山を舞台に表すことを前提としたのだよ。風、鳥の囀り…全て…(これを伺う時点で もう魂が大泣きしていたので、正確な言葉を書けず申し訳ありません)』。自分が興奮したのは、全身が五女山の只中にいてその空気に感動したからなのか、と涙が溢れそうでした。他にもインドネシアに 空海の曼陀羅と同じ形が描かれた作品が古来から存在し、時空を超え伝播したこと、ベトナムについて…。たくさんの貴重で初めての御話を伺い、自分は音楽生命も生命そのものも 断たれる寸前の状態が救われ、このように早々に先生に直接伺う機会をいただき、感謝の一言では到底済まない気持ちで居ります。いだきしん先生、ありがとうございます。高麗さん、ありがとうございます。これから結工房に伺います。
岩村ゆかり