“直観”、熱情、ファンタジー< 風雲、潮時
未明に目覚めた本日の再生の中心は”直観”、熱情、ファンタジーでした。昨夜遅くまでずっと考えていたことの答えが出ずにあきらめて眠りました。未明の目覚めと共に観えた光景はエチオピアコンサートでのいだきしん先生のお姿でした。特に現地のダンサーたちが踊る姿をじっと見守られながらシンセサイザーを弾かれているところです。
受容し共に変化変容し、いのちを活性化させる先生、全体の存在はどのシーンを追っても常にじっと他者のいのちに寄り添い、共に変化変容していかれることが伝わってきます。正直言って久しぶりに見たエチオピアコンサートのダンスのコーナーは長かったです。それでも先生が受け入れ続け集中され、奏でられる音はずっとずっといだき続ける空間の創造です。
コンサート当日の「大画面映像に映った子どもたち」との交流は何の違和感もなくいのちのままにすーっと入ってくるのでしたが、ダンスショーの時間は最初は一方的な受容としか感じられませんでした。現地での当日は私は演奏される先生の真ん前にいたので先生とあの地の全体の「熱情」を全身で感じていましたが、映像であらためて見せていただいて現地での自己の全身が感じ取っていたこととは違和するものが入ってきました。ところが目を瞑って聴いていると先生の演奏、シンセサイザーの音からあの会場全体をいだく様子が蘇るのです。「見られた身体」が消えたのです。
10月23日のあの日のコンサートの経験以来、今何が起こっているのか、自分に何が問われているのかを考え続けます。あの日と言わず、この世に生まれられてからずっと戦っておられる先生のことは想像を超えますが、さらに新しい生命の中心に迫っていかれる今、と推察するしかありません。またあの日以降、自己の存在を新たに問い続けておられる高麗さんのお姿は同じく自己の存在を問う自分自身の鏡のように観え、いつしかファンタジーの世界が広がります。そうか!? 先生が熱情、ファンタジーと伝えてくださったのはこのことなのか?と目覚めと共に”直観”がはたらきます。
行けども行けどもつまるところは自己の存在を自分でわかるよりない人間。わかってる気で「いだきを生きる」と考えていましたが、やはりわかっていないことに気づかせていただく”風雲”の時と観えてきます。大好きな額田王の歌を通して先生が教えてくださった”潮時”。
どこまでも他者を受け入れてこそ自己の存在を真にわかる存在へ、一歩づつ自らの足で大地を踏みしめるべき今、足腰を鍛えなくてはいけません。
いだきしん先生のおことばを引用しているのではなく、私の身体の中で先生のおことば、メッセージが”いのち”となって花開き、身体は肉体へと変化変容し、存在が表れる時を感じます。ありがとうございます。