盛岡にて
わたしは『人』が好きです。好きすぎて、自分のことがどうでもよくなります。自分が何を感じているのか、自分の体、わからなくなります。そうならない訓練にと、今日は盛岡へ到着してから、一人で『感じることをごまかさずにそのまま感じる』ゲームをしました。?ごまかさずに感じていると苦しさに笑顔のひとつも出なくなり先生を待ちました。ごまかしに自分で気付きつつ薄ら笑いを浮かべるならまだ良いですが、一番悪いのは自分で自分に気付かないことだと考えます。
人といるとそれだけで嬉しくなりそこから進まないことを課題としていて、自分がどうしたいか、どうなりたいかを考えることが足りないんだろうなと模索しています。
今日は死についての講演会とビデオ講演会に参加しました。今を体でわかること、相手を体でわかるのが人間であることを学びました。始まってしばらくは苦しさが続きました。普段から豊かには生きられず、ここ一番というときだけおめかしをして桜祭りに参加するような、先生の奥様がおっしゃったという悲しさ。同時にカサカサとうごめく貧しさ。そんなものが自分の状態と重なるので、辛くてどうにもしようのない絶望に近い感じでした。あるところで先生が話の中で出てきたお医者さんのことを『たいしたこともできないのにどうしてプライドばっかり高いんだろうね』とおっしゃったとき、文脈上はお医者さんのことでしたが、私は『おいらのことを呼んだかい?』と心で返事をして顔を上げました。ほんとにそうですよね、わかっているんですけどどうしてこんなにも現実検討能力を欠いて尊大なんでしょう、、、と、そのまま受け入れるしかない疑問を直視し、そのあたりから、苦しさが解かれていきました。
ご参加者の方が、体の声を実際の声に出していかれました。先生が『いまの体の声は?』と問われ、自分も自分の体の声をそのままにノートに書くと、『貧しいのが嫌だ、大切な人や視界に入る人が貧しいのもほんとに嫌だ、みんなで豊かでないと苦しい、悲しい』と書き殴っていたので、私はいまそういうふうな人なんだとわかりました。
大切な父と母は、いまは元気ですが、おそらくはいつか先立ちます。その日を迎えることから逃げずに、大切に生きることをはぐくみます。
ビデオ講演会では、わたしには見えないし、ふつうにしていたらわからない霊界のお話、高麗さんの世界のお話をお聞きできてスペクタクルです。もともと好奇心旺盛なわたしにはおもしろくて、興味深くて、確かにそっちの世界をまるまるわかっていらしたら、いだき以外に有り得ないであろうことも、なるほどと納得がいきます。レバノンや海外の活動をお聞きするにつけ、やっぱり自分はとんでもなく立派なNPOの輸入しているコーヒーを卸販売しているし、関わっているんだということを改めて感じます。『なにも自分が関わるのがここまで素晴らしいところでなくてもよかったような気もする』と思うところもありましたが、そういう無意味なことは思わずに幸せにいきることに邁進します。
ありがとうございます。