“生まれ変わる言葉”
「国語の先生は何を教えてるのだろう?」――先日の応用講座で先生がそうつぶやかれていた。教壇で「現代文」を担当している身としては、もどかしさに駆られるばかりだ。一方、文科省検定教科書「国語総合・現代文」(高一用)を使って、読解と鑑賞、そして思考力を養うのに、何ら問題を感じない教員が大勢いて、生徒も教科書で学ぶことに何ら疑問を持っていないのが現状だ。いつも4月の最初の授業のとき、「高校の国語って何をするのか?」と発問し、生徒たちを困らせる。「英語はまだまだ習わなければだめだろうが、日本語については、中学までで十分ではないか。第一アメリカやフランスに“国語”って教科はないのだよ。」と迫ると、少し真面目そうな奴が「大学の入試科目に必ずあるから、疑問に思っても仕方ないでしょう。」と返事する。なるほど逃げ向上も用意されているのだ。しかし、わたしは、もう50年も前に教壇に立ったときから、その問題を抱えていた。開明的な校長が、「教科書は使わないでいい、テストもしないでもいいです。成績は出してもらいますが、お好きなようにやって下さい。」と言うからだ。新卒の身、本を読んではいたが、教えるほどの教養もなく、言葉に関する知識も浅薄なものでしかなかったから。(その時は、「表現」を担当していたから、生徒一人一人の発表と話し合いをやって切り抜けたが……。)そして、いまだに「何を教えるか」について悩みっぱなしなのだ。それがきちんと言えたら最高と思うのだが、まるで“青い鳥”を追いかけているみたいなのだ。
「生まれ変わる言葉」を使えるように、生徒たちを導いていくのが大事なことだろうが、それは例示できない代物だし、ひな型があるわけではなかろう。新しい経験や感覚を表現できればいいのだろうが、それは予行演習のできないものだろう。そして、予期と予測を越えた即興の産物でありながら、不変と永遠に匹敵するものなのだろう。ともあれ、わたし自身の能力アップが肝要なのだから、実践を重ね、向上心を絶やさないようにするしかないと思う。ちょっと追い詰められ、困惑する日が続いていたが、めげないで前を向いていこうと思う。