生き甲斐
二週間ぶりに母と電話で話しました。私が来ないから、足が悪くなったのかと心配していたと云います。面会は月一度しか行けないルールなんだと何度か伝えていますが、忘れてしまうようです。母が捨てられたと思った気持ちは、そうではないことが伝わったようですが、面会に来れない私の理由を考え心配している母は、気持ちが休まらないのかなと胸が痛みます。母の部屋には父と愛犬の写真を飾っているのですが、「家にいるのに一年中背広では、肩が張って可哀そうだ。」と云いました。確かに写真の父は背広姿です。思わず笑って、「いつもセーター着てたでしょ、大丈夫。」と言うと、「あぁ、そうか。ジャンパー一枚位なら私も買ってあげられるなと思っていた。」と云う母の言葉に、父との関係を見ました。毎日、父の写真を見ながら話していると云う母は、長い間の一人暮らしの習慣の重みを感じます。施設での毎日が気になり聞いてみました。グループ替えで引っ越ししてどうかと尋ねると、声に出して話せる人がいないと云います。食事が終ると部屋に戻ってベッドに入ると云うのです。話を聞いていると、要するに母は自分で諦めてしまっているのです。私がどんなに言葉を伝えても、「多分駄目だと思うよ。」と閉ざした答えでした。話してから一時間が経ち職員の方が来られたようなので、「声に出して話せる人がいないのですか。」と、そのままお尋ねしました。「そうではないけれど、直ぐ部屋に戻られる方もいらっしゃる。」とのことでした。逆に母の方が足が痛いと言うので、ベッドに行くと教えてもらいました。即座に「仮病なので無視してください。」と言うと、電話先の若い女性は「そうなんですか」とケラケラと明るく笑ったのです。その笑い声で私は、母がつまらないと諦めて心を閉ざしていること、足が痛いと言えば部屋に戻れることを知って逃げていること、でもそんなことを繰り返していたら更に悪循環になることを伝え、「お願いがあります。母にも言いましたが、洗濯物をたたむとか、食事の箸の配膳を手伝うとか、片手でも出来ることを何でもいいので手伝わせて下さい。生き甲斐があれば足も痛くないし、母は人の役に立ちたいのです。独りでポツンといる人に声をかけて、お茶を誘ったりする人なんです。」と一気に話しました。彼女は直ぐに反応し、「洗濯物をたたむのを手伝って下さっている方がいるので、早速これから一緒にやってもらいましょう。一緒にやることで話ができるかもしれないし、その方が私たちも嬉しいです。」心からお礼を述べて、電話の向こうの彼女に頭を下げました。やれることは何でもやってみて、だめならまた考えてやればいい。心を閉ざして諦めてしまったら、何も考えることすら出来ずに嵌って落ちていくだけです。母は独りではないこと、母が本来持っている良さを発揮できるきっかけをつくりたいです。血液検査の結果、肝臓の数値が高い為にエコー検査をすることになりましたが、今の母の状態を考えればつまらない毎日の中で健康であるわけがないです。母を通して自分で言葉を発しながら、自分に気がつくことが多いです。母に云うばかりじゃ格好が悪いので、言ったからには先ず自分もやらなきゃと元気が出てきて嬉しいです。ありがたい気づきを、ありがとうございます。