生きる証
昨日は三鷹の風のホールでのコンサートがはじまると、何かが発掘されて行きそうな音と気配に、気づいたら私はその道をどんどん辿っていました。そして辿り着いたのは、私の心の奥の更に奥底に葬られた光景です。誰が葬ったのか…それは初めてみる光景でした。
どこかの山か森の中に今にも風化しそうな石造りの建物が在って、その屋根もなくただくずれかけた壁だけがある場所に、緑の中の木もれびが静かな山の空間に届いていました。すでに草や木が建物に生い茂るようになって一緒に生きているようでした。その建物の中に、私は時空を超えて立っているようでした。私の心は、心の底から満ち足りていました。この心に、平穏と安堵を生んでいることに驚いたのは私自身でした。源に帰れているのかもしれないとすら思いました。そこが果ての源であるのか、源の一歩手前の場所であるのかはなんとも云い切ることができないのです。更に源がこの世には存在するのかもしれないことは、いつもコンサートで感じて経験したりするからです。しかし、今のところ、昨日のコンサートでのその光景は源のひとつであるように思えて、しかし何か見てはいけないような場所を見てしまったようでもありました。最近、かなしいのと、誰かに会いたいような心と、少しの寂しさがずっとうすい空気のように私に張り付いていたようなのが、よくやく昨日のコンサートで晴れていました。生還しました、と誰にともなく報告とお礼を申し上げたい気持ちでした。
この6月に入ってから、どうしようもなく広島と長崎の原爆のことを想う日々でした。それが、何故なのか自分でもわからずに、考えないようにしていたのが、昨日のコンサートでは、私は真正面に向き合うことが出来ていました。それは、心の奥底の森の中の光景ともピアノの音でひとつになってゆくようでした。そうして、私は誰かにお会いしたような感動で胸がいっぱいだったのです。誰かに会ったような、それでいてその誰かとは一人ではないような存在で、愛おしくて涙が出るという経験でした。そのくらいの存在を、私は昨日まで知らなかったのです。こういうことで自分がはらりと涙を流す人間とは思っていなかったので、未知なる発見と発掘をしたような驚きでした。私の身体の内の、閉ざされていたところにはじめて血流が通るような体感でした。
アンコールの手拍子は始まっていました。皆様の真剣に手拍子をされるエネルギーに、私の身体も動かされるようではっとしました。そうして、私は現代へ押し出されるように来て、深淵な森から還ってくることが出来ました。とても、深く尊い経験でした。私にとりまして、不思議な6月のコンサートへ明日も身を運びます。ありがとうございます。