玄牝に至る音の正体
いだきしん先生のお話ライブで音の正体、本質をより深く理解できました。胎児の時に内耳やからだ全体で聴いた音、正確には振動の記憶を取り戻し、存在そのものの根拠であること、それは存在の差異を認識することと理解しました。存在の「違い」ではなく「差」であることを繰り返し繰り返し伝えてくださいました。存在としての差はコンサートメッセージでは「無音と無音の差、静と静の差、有ると有るの差」とも表現されました。本当はピアノという道具を使わないで黙って座っていることで空間と一体となるいのちを取り戻せれば良いとは、今振り返れば先生にお会いして数年後に直観的に感じていたことです。それはご一緒する機会が増えていくと共に沈黙の時間に感じる程良い緊張感と心地良さを身体でわかる経験だったのです。今でも講座の対話中によく経験することですが、沈黙は先生が見出された「人間とは何か」の答えに近づく貴重な全身経験と今はわかります。
差をわかるのは大切でありながら、「差」が先に行き過ぎると「違い」になり孤立するとお聞きし、太宰治を思い出しました。太宰治は処女作「晩年」の巻頭に”撰ばれてあることの恍惚と不安と二つわれにあり”とのフランス詩人ヴェルレーヌの言葉を引用していましたが、当時の私は太宰治は「ある何か」を超えられず死を選んだのだと感じていました。「何か」が「何なのか」、全くわからないことでしたから、ヴェルレーヌも太宰もとても気になる存在でした。今は忘れてしまうほどの遠い過去と感じますが、「今」に生きる過去として捉え直すならばこの「何か」の遥か先をとっくに超えていかれたはずなのに「違い」や「死」ではなく「差」のままに「生」を生きておられる存在、いだきしん先生の存在があってこそ本来の人間として生きられる尊い出会いのチャンスが「今」にあり、人類の希望を感じます。
いだきしん先生ご自身はすでに50年以上前に始められ、私たちは何とか理解できる言葉として老子の「玄牝」を見つけていただいて、やっと入口に近づいたホモサピエンスの生き残り戦略。その要が「いだき」と感じながら自らでは先に行けず、道具としてのピアノ、存在を表す音のことをやっと教えていただけたのです。特にこれからの時代を大きく左右する生成AIの急速な進歩が予測される今、使われるのではなく、AIを使いこなし内面性豊かに自律へ向かう強い人間、いだきアントレプレナーが求められることは必至です。
その要である愛への道のりはまだ遠いですが、向かうよりないスタートラインに着かせていただいたと感じます。「愛はゴールのないスタート」とのメッセージに無限の可能性を感じます。いつもありがとうございます。
