瀬戸際の手前
昨日のお話で、私には人類の滅亡がどういうことか、言葉ではわかっていても理解に及びませんでした。そして本日の「死について」に参加させて頂き、最後にはこのことへの理解に繋がりました。現状での開発をこれからも続ける自然環境破壊が意味することは、人間が健やかに生きられる場を自ら削っていることと腑に落ちるように理解されました。生物として、もはや生存できない所まで到達しようとしていることと捉えられました。「全体」のお話を伺い、沢山の部分的問題がそこら中にあり、私たちは、それを片付けていけばいいのだとも、その時に考え至りました。日本人の技術、文化が海外での環境改善に役立っていることを伺い、また昨日のお盆のお話からも、日本人は死者にも居場所を作っていたとも考えられ、「やさしい」民族だとも、また見えないことを大切にしていた民族とも感じ入られ、だからこそお役にたっているのだとも考えられます。問題がそこら中にあると行き着いた以上、気になっていることもその部分的問題と捉え、アプローチしたいと考えます。人は死んで初めて全体となることは、死んで自由な身となると考えていたので、「そういうもの」と感じてしまいました。先生が死なないと自分そのままであれないなんてという旨を仰ったときに、この世の歪みを当たり前と捉えていたことに気づかされ、驚きに近いものを感じ、また生と死の境界線が溶けるような印象を持ちました。死んで自分らしいなら、死んだらどんな自分なのかと想像し、死後どうありたいのか、つまりは今どうありたいのかと考えます。本日、新しいPCが到着しました。今までスマホでもどかしく打っておりましたが、ひとつスッキリとしました。
礼謝
田嶋利江子