濃密な6DAYSスタート2020年。
「自己とは何か?自己はあるのか無いのか?」との いだきしん先生の問いかけから始まった昨日の存在論でした。先生に出会ってからはそれまで探求していた「自己」はないと理解していましたが、あらためて先生から問われると明確に答えられない曖昧さがあることを認識しました。自分ではわかってなかったのです。そして、「内」に何もない状態を哲学的には「可能態」といい、ハイデガーの「現存在」の本質であり、さらにその状態の人を「無人」ということを教えていただきました。しかし哲学が「無人」と言っても実際は「人は無人ではない」ことはいだき講座を経験しているわたしたちにはわかります。
ところが、いだき講座を受け、ずっと様々な講座、コンサートを経験し続けているわたしたちは限りなく「無人」に近い状態にあるはずなのになぜ、過去を繰り返すのか?意志が弱いからなのか?意識が強いからなのか?この数年ずっと言われ続けてきた悪い頭の問題か?と疑問が湧き質問しました。高句麗の歴史、高麗さんの存在、朱蒙様の生き様を追体験させていただくような先生のお話でよくわかりました。
講座の中で「無人は空間と一体化する」とお聞きしたのですが、先生と朱蒙様が空間で一体化して伝わってくるように自分の全身が集中し身一点になったかのようでした。「わかる」とはこういうことか、とわかり、「先生への質問」と「答えていただく時にきちっと先生と向き合う状態」→「対話」に真の答えがありました。
アントレプレヌールサロンの会計学、決算書についてはまだよくわからないことがあり、自らに問うことでじっくりと考えます。ただ昨日の存在論でも連綿と引き継がれていた膨大な殉教者の方々の存在についてのお話があり、やっと見えてきました。書くことで考えはさらに深まり、「ロシア的」からはじまった元旦の対談からずっと繋がっていた壮大なテーマだったことがようやくわかってきました。
貴重な経験の場であり、考える力、動く力をつける場をいつもありがとうございます。