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清酒と濁酒


不幸は慣れているから安全に感じ、幸せは未知で怖い。片手はアリラン、もう片手は別の世界のような融合された先生の音は、聞いたことがありそうなのに新しく層を成していて、「ぜったい変わりたくない、手放したくない」としがみついているものが浮き上がってきます。不安や恐怖やしがらみに襲い掛かられながらも、モチをつくように清酒を作るように、自己を強くして鍛えていくよりないと、もはやピアノではなく何か別の自然や宇宙の音だと感じながら『いのちの幸せ』と『聖』を学んでいきました。

如何ともしがたい「口惜しさ」。どこにもぶつけようもなく、答えが出せずに、コンサートへ参加するようになりました。口惜しさの正体は「不幸しか知らない」という内面が空洞で自己が欠落した状態が当たり前である歴史だと感じました。不幸なのに不幸と認めない、内側ではなく外側にばかり目を向けて余計に疎外されていく、それが口惜しくて口惜しくて、誰かを責めたら良いんだろうか?と会場の席に座ってもしばらく混乱していました。

先日の応用コースでは「明日やるのではなくて今日やりきる」と改めてお聞きして、帰って、やってから寝ました。これを毎日する自分へと「変わります」。という言葉を使おうとすると足元から彼方から、空間のあらゆるところから不安やら焦燥やらが飛んできたり、「必死でやったら大切なことが見えなくなって人に迷惑がかかる。お前は人に迷惑をかけたいのか」とか、声が聞こえてきたりします。迷惑は出来るだけはかけたくないけど変わることを望むのです。決めることからです。「やっている」ということに疎外されて全体が見えなくなることがあるので、それを無くすことも必要です。あと、別の話ですが、同格の『の』は優しい感じがしました。

世俗の中で高い能力を持つことは、恨みや口惜しさ、怒りを元にしても出来るけど、聖人には、心の鏡が未熟な状態ではなれないのかなと感じました。そこで本文全体とあまり関係ないですが『清酒と濁酒』というタイトルにしました。

ありがとうございます。

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