”水曜日生まれ”
村上春樹の『街とその不確かな壁』を読んでいたら、「水曜日生まれ」は「苦しいことばかり」というマザーグースの歌の文句が素材に使われていた。主人公の「私」は水曜日生まれで、不条理の世の中で、「魂の疫病」のようなものに苦悩している。そして、わたしの誕生日、1943年4月7日も水曜日だったので、ドキッとする。まあ、わたしの子ども時代は、裕福な環境で「苦しいことばかり」ではなかったが、気持ちの上では不満だらけで、さびしい思いに駆られることが多かった。そして、いまは、いやいまの方が「苦しいこと」が多いようにも思う。
並行して、『存在とは何か』(小林康夫著)という哲学書も読んでしまったが、この命題も苦しくてなかなか解けない。「つまり、「存在とは何か」、この問いに対する解は、言語あるいは論理によって構築される意味の体制の中にはない、ということ。」(p120)辺りまでは、それなりに納得し。面白く読んでいたのであるが、ハイディガーの『存在と時間』(1926年)とシュレーディンガーの波動方程式(1926年)とで断層線を引き、現代の量子力学(2012年ヒッグス粒子発見など)にいたる方向で「存在」を考察する後半は、とてもついていけなかった。「存在は量子的であるのではないか」(p168)と言われても、結局、「存在」とは、表現し続けるしかない、というような解釈にしか至らなかった。別に、「水曜日生まれ」でなくとも、難問苦闘に変わりはなかろうが……。
知能の足りなさ、金銭的不遇、老年であることの不安などに苦しんでいることは事実であるが、ほんとうはあまり気にしていない。気にしたってどうなることでもないし、実存とは「賭け」とか、存在とはプロバブル(起こりそうな・見込み)という言辞に魅かれ、「言葉の学び」の展開、国語教師としての活動に全力集中していきたいという思いが先立つ。今日も、夏期講座で、生徒たちに言葉の面白さについて語れたのでホッとしている。
そうそう、マザーグースの歌は、「水曜日生まれ」の「子ども」は、であって、「おとな」でないことを、急いで付け加えておく。(7/31)