水の流れ
昨日の応用コースが始まる前に、1枚のマーブリングのブラウスと出会いました。鏡に当てて見ると、私の中で水が流れました。清らかな水が流れる衣装を身に着けた自分の姿に、これからを見ました。会場での先生のピアノの音も、やはり水が流れていました。余計なものを押し流すかのように、勢いよく水が流れていきます。留まることなく強く、清らかに流れ続ける水の流れの中で、本来の自分を取り戻すことが母の助けになるとわかりました。「共感」に対して、先生が仰るように取り違えていたことに気づきました。気が合うと単純に共感したと思っていたところがあったのです。「自分のいのちを、そこに発見する。そうでありながら、色々な考え方がある」との先生の言葉を考えます。表面的な考え方であった自分の浅さと同時に、だからこそ共感は動きになるのだとわかりました。何度も仰った核のこと、人類が終ること、コンサートのメッセージのこと、自分の浅さが浮き彫りとなり恥ずかしくなります。層の深いところに共感、受容があるとの言葉に、自分の生き方を問うていました。薄っぺらさを感じると同時に、先生が仰った「層の深いところで皆さんが生きる」との答えがある以上、生き直しです。
今朝テレビをつけたら、清里の町おこしを放映していました。先を創ろうとする動きに対し、地元とよそ者、過去と未来、こだわりの溝が見えます。「灯りを1つでも灯す。この町が好きだから」純粋な気持ちに、つい見入ってしまいました。未来のために、先ず子供たちの塾を創ったその方の番組を見ながら、高麗さんたちが活動し始めた国創りの行商を考えていました。風を起こすのだと見えたのです。1人1人の小さな風があちこちに起こり、やがて大きな風の流れとなって動く光景が見えました。
2年前の今日は、接触転倒事故で骨折し救急車で運ばれた日です。病院に運ばれながら、どうしたら今夜の高句麗伝説に行けるかと、それだけを考えて医師に一時外出を頼み込んでいたことを思い出しました。何もかもが必死でした。ためらいも迷いもありませんでした。その1年後に、保険会社を相手に弁護士を通じて戦うとは誰が予想できたでしょうか。ですが、予感は既に最初からあったのです。何か引っかかるものがあったからこそ、結果現実になっただけでした。いのちのはたらきは、常に未来を先取りして動いていると、自分の経験を通して実感する朝です。そこで終わらせるのでなく、水が流れて動くように生きます。大きな気づきを、ありがとうございます。