気づきへ
川のせせらぎや小鳥たちの鳴き声、春の花咲きはじめ自然の豊かさに生命癒されながら会場に向かうことができとても有り難い、応用コース前の時でした。ご演奏はじまりピアノの音はやさしくて、あたたかくて心身は愛につつまれ涙あふれていました。一音一音をそのままにお聴きできると至福の喜びに満たされました。恥ずかしながら頭に別の意識よぎり、このうるさい頭の状態を何とかしたいと元の状態に戻すことに何度か集中しました。この頭の状態は分かって解決したい課題でした。
「捨てる」ことについてお伺いしました。いつもですが、自分で気づくことを、自分で気づくまでずっと待って頂いています。自律への道へ、そして人間として人の存在を尊重することを身をもって経験させて頂いています。また自分の言葉で表現する前に観念で先に話してしまうことも自分で分かるという機会を奪ってしまうこと、人をはめてしまうこと、洗脳になってしまうことを、後に問うて頂きましたことにもつながることをようやく分かるように経験致しました。
心臓がドキドキする状態については、緊張しているのか胸が高鳴っているのか一考すると自分の感受性で分かるようにならないと分かりませんので、そういう意味では悪いとも良いともいえない状態を即座に悪い状態であると認識する必要はないと気づきました。人と争ってしまう性格、気質については、先生の学生時代に争うべき時は争うべきであり学内闘争に至ったことをお応え頂きました時、先生のご著書に「腹が立ったとき何も怒らないでヘラヘラしている性格もまた、考えものです。人から不利益を被ったとき、怒るのが人間です。」というお言葉を思い出しました。私の場合は怒るべきときに怒らず、言うべき時に言わず、あるいは言えずという性格であった過去と比べると「むしろ、正常になった」と、争うという性格を捨てなければならないように誤って捉える必要はないと気づくことができました。
参議院で野党が政府に高額療養費制度の自己負担額の上限引き上げの凍結を求める国会中継の話題で、患者の立場からすると生死に関わるような問題であり、その一場面をたまたまテレビでご覧になられた時に、捨てるというように無関心でいるという選択もあるが、当然に無関心ではいられないというお話しを頂きました。そのお話しから「捨てる」という言葉の表現は「無関心」という表現にもつながること、また「捨てる」という言葉の表現は他に適切な言葉がある場合には適切ではないことに気づきました。また「余計なことをしない」は「必要なことをする」ことであるのに、余計なこととは何かと考えて、自分の内面に宿るマイナス因子や自分勝手な心やわがまま、自我などを「捨てる」というように勝手に解釈してしまっていたことも気づき、恥ずかしいことです。人との関係において、関係を構築できる方々と関係を築いていくのと、関係を築いていけない方々とは関係を切るように「捨てる」というような表現をしていたことも適切ではないと気づきました。関係を築けないと判断しても相手を尊重する観点からは何度もこちらの気持ちや考えを伝えるとか、そういうことを経た上で関係を切らざるを得ないように、段階的に対処する必要がある、そんな状況もケースバイケースであると感じました。
信仰はあるかについて「ないです。」とお答えしましたのは振り返れば三度目です。実際に信仰はないですが、信仰はあるかというご質問の意味を初めて感じました。意図せず、そのままに表現させて頂けました。意図してなかったので目から鱗という感じです。抜け出せたのかもしれないと希望を抱きます。「捨てる」のように使う言葉に頭の状態は現れます。「捨てる」という言葉の背景に過去に所属していた団体の教義があります。また世の中にある「捨てる」という観念の影響を受けています。正に自分で気づいていなかったということははまっていたこと、体制や団体に使われていたこと、洗脳されていたことに気づきました。腹が熱くなってきました。内面の反応は何かを現しているのかと感じます。資本主義体制の体制すら今やぐちゃぐちゃになっていて、資本主義体制の本来を既に成していないこともお話し頂き、ぐちゃぐちゃになっている世の中の状況であると認識致しました。そしてこの世の中には意図や誘導、洗脳に溢れていると感じました。具体的なお話しにより一つ一つの事に気づかせて頂きました。世界中ここでしか経験できない尊い機会であることに畏れいります。つづくご質問される方々とのお話も終始人間として安心して生きていける場をつくっていくこと、愛に生きることを感じ感動して涙あふれました。尊い時を、愛の経験をありがとうございました。