母の言葉
母は倒れて以来、変わりました。余計な言葉は口にしないだけでなく、見るものも明確です。それには正直ずっと驚かされる一方、本来の人間の姿を教えてくれています。先日帰宅した時に話してくれたことです。「どうやったら、あんなにごつごつに固いハンバーグができるのか。そのハンバーグの上に、ケチャップをごってり乗せている。なんで何かを被せて隠すのかね。必ず隠して誤魔化してる。」と言うのです。「ジャガイモと人参を煮た上に目玉焼きを被せていた。めくって見たら野菜が二、三本だけ。いかにも多く量があるか見せかけている。」あれなら別々に盛り合わせてくれた方が、よっぽど分かりやすいと言うのです。めくって見る母もすごいなと思いつつ、必ず隠して誤魔化すとの言葉に見透かされているようでドキリとします。
「ワカメの味噌汁のはずが、ワカメがデロデロに通せんぼして汁が喉に届きやしない。だからお婆さんたちの口が皆んな真っ黒で、ワカメが張りついている」と聞き大笑いです。最初はワカメを煮過ぎてデロデロになったのかと思ったのですが、よく聞くとすべてにおいてトロミ剤が入っているせいだと分かりました。「たまには普通のサラリとした飲み物で、ゴクゴクと喉を潤したい」その言葉にやっぱりなと頷きました。母はむせたりしません。私と食べる食事は同じもので、少し小さく切るだけです。それなのにトロミ剤を購入するように何度も言われ、カタログのコピーまで置いてあったので仕方なく買ったものの、未開封の袋のまま自宅のテーブルに置かれてあります。一体何のために買わされたのかと見る度に不愉快です。施設では誤嚥防止にトロミ剤をすべての物に入れていると聞いていますが、何の為に傍にいるのでしょうか。ワカメがデロデロに通せんぼして汁が喉に届きやしないのなら、味噌汁の用をなさないと笑った後に考えてしまいました。病院と同じくリスク未然防止とは理解しながらも、施設に対して問いたくなります。「お家に帰ろう」プロジェクトで、あんなに普通の食事を食べさせてあげたいと訴え、頷いて同意してくれた意思はどこにいってしまったのでしょう。年寄り収容所と言葉が浮かび、先生が講座で仰った「ここにいるお年寄りが何悪いことしたっていうのか」の声が蘇ります。
「私と一緒に食べる食事は最高じゃない。食べたい物を好きなだけ食べて」笑いながら言うと「上出来の上」と言う母。五月六日に九十三歳の誕生日を迎えますので、一足先にお誕生日ケーキでお祝いしました。ホールで買ったら食べきれないかなと一瞬躊躇いましたが、大好きなフルーツケーキなのでそのまま買って正解でした。十本のローソクを自分で吹き消し、まだ吹き消す力があったと言います。夕食をペロリと食べた後、ホールの四分の一のケーキを出すとこれまたペロリ。まだ食べるかと聞けば、「もう少し食べたいね」夜中にも関わらず笑ってしまいました。
そんな中、気になることがあります。お誕生日ケーキと一緒に写真を撮る際、「はい笑って」と言ってもニコリともしないからです。「倒れてから笑わなくなったね。なぜ」前々から聞きたくても聞けなかった言葉です。「笑うことなど何一つない」母は、そう答えました。そうかと思ってはいましたが、実際に口に出した言葉で聞くと何だかショックです。笑うことなど何一つない暮らしって、楽しみもなくただ生きていることだとしたら、私なら耐えられません。母は台所に立ちながら、よく歌を歌っていました。何の歌かと聞けば「でたらめの歌」と笑う母でした。今、思い出すと涙がこみあげます。ケーキを前に真顔で映る母の写真を笑いながら見せると、「男か女か、わかりゃしない」自分が映った写真を見るなり 一言言い放つ母。あまりにも痛快な一言に思わず大笑いです。母の言葉は予測不可です。「年寄りは、みんな髪は短く同じに見える」確かにねと言いながら、深く考えさせられました。重ねた年月、誰もが同じ筈がないのに。同じであってはならないのに、同じに画一化されている。「お婆さんたちの口が皆んな真っ黒で、ワカメが張りついている」と母が言ったお婆さんたちが目に見えます。母の言葉は、笑うと同時にいつも考えさせられることばかりです。よぉし、やっぱり私が「あははのは」で笑い飛ばしていこうと決めました。いつか母が笑える日が来るように、私が明るく元気に生きていきます。