東北センターにて
10年以上前勤務先にて試験があった際、算数問題が解けず愕然としたのを覚えております。あまりの自分の頭の後退が情なく何か大事な能力を落としたかのように感じました。その後数年経ち、先生が数学のお話をされたのを記憶しております。しかし今回再び算数を伺い、能力が落ちたのではなく記憶が薄れたからとわかり、自分が本当は算数を理解していなかったと認識出来ました。数字と方程式を記憶していたに過ぎなかったことに、改めて本当は算数をわかっちゃないこと、「0」の認識が間違っていたことが、何か小2をやり直すようで新鮮で嬉しくもあります。おへそのないカエルが、何匹集まろうがおへそはないことが可笑しく面白く、もしこれが当時であればゲラゲラとお腹を引きつらせて笑っていたことでしょう。『虚数の情緒』、遠山啓の著書も丁寧に読んで行こうと感じます。応用コースでの最初の質問に、家族のあり方は様々ですが、その介護の大変さが傍でお聴きするだけでもそのお辛さがズシリと伝わって理解されました。先生が施設での職員の方々に常々仰っていたことを話され、その事がそのまま日常の家族の事に繋がることに改めて気付かされました。また、元気になる元は何かの問いをずっと考え、自分の場合、一つは、〇〇さんの笑顔と到り、また一つは神戸の家族や従姉妹たちが元気に暮らしていることに行き着きます。それは京都の存在論でのある方のご質問の「里」に繋がることと考えます。昨日の講演会にも参加させて頂き、始まるまでお声がけをしておりましたが、自分の状態がそのままか諦めた感を秘めた方々ばかりでしたが、その中でもとてもやさしい、そよ風を思わせるようなご婦人がおられ、大事に生きてらしてほしいと心から願い、お伝えしました。自分にもこの様な気持ちが湧き上がる心がまだあるのだと、正直に、感じたのであります。すぐに孤立し自らを疎外する癖と、気がつくと間を作る癖と最近は、いい加減にしろと声にも出して気持ちを切り換えております。頭で自分を殺すことを配信されるビデオ講演会でもお聴きしているので、何か虚しく閉ざされそうな時にふとそのお言葉を思い出し、何を演技するのかと奮い立たせます。先日ある方より私の向き不向きで気づいたことをお聴きし、そう言えば、子どもの頃から女の人に自由に生きてほしいと切望していたことを書き込みしていたと思い出しました。更に整理しようとノートに書いていて驚いたのが、女の人は地球の象徴と書いていたことでした。土偶などに女性像が多いのも、女神と作られるのも、もしかしたらこの概念のもとかもしれないとかんがえました。正直、そうであれば素敵と感じ、ここに表現することで今までの概念も変わってくるかもしれないと考え、思い込みかもと半信半疑の中、敢えて書き込みさせて頂きます。
ありがとうございます。
田嶋利江子