本音を知らず……
7回のエベレスト挑戦をし、結局は、自死にも近い遭難死をした若者、栗城史多のことを書いた、河野拓の『デス・ゾーン~栗城史多(くりきのぶかず)のエベレスト劇場~』を読んだ。2004年のマッキンレー登頂から始まった、かれの「単独」登山は、その著書とともに、一躍マスコミ界の寵児として、世間の注目を集めた。山好きなわたしが見逃すわけはない。その著書の中の言葉の格好良さや、物おじしない若者の底抜けの明るさに喝さいを送ったものだった。重厚な感じのする登山界、容易に素人を寄せ付けない岸壁、努力と強靭な肉体を要求するスポーツ、そこに「夢一つ」で実績を積んでいく、軽薄な若者!それは新しい生き方のモデルでもあった。しかし、もう無謀としか言えないスタイルを発信し続けながら、世界にネット配信し続け、その起業家としても成功していく姿に、多少の疑念が生じ、ついていけないものを感じていたのも事実だった。(著書と著者の乖離にあきれもし、著書の言葉に魅せられることの危惧をも思い知った!)エベレストは知らないが、あまりにも山を、自然を、そして人生をなめて過ぎているようにも感じた。さらに、そうして、かれを担ぎ上げ、ビジネスに利用し、「失敗」の後は、見向きもしないし、反省もないマスコミに「怒り」にも似た感情を感じていた。ところが、この本の著者は、そのマスコミ界の一人、かれの報道番組を作成した放送記者の著述なのである。しかし、著者自身、そのことの責任を十分に感じながらの記述なので、なかなか読み応えのある著作だった。
「私が本当にもどかしいのは、栗城さんが本音をすなおにかたろうとしないことだ。」
著者はこう記述しているが、わたしは、栗城史多は、「本音」がわからなかったんだと思う。目立ちたい!とか、世間から注目され、寵児でいたいとか、の欲望はあっても、みんなと夢を共有したいという願望はあっても、本音、すなわち真のかれの心持ち、生きたい方向、愛の輝きについては、最後まで分からなかったんではないかと思う。また、分かろうともしないで、終わってしまったんではないかと思う。先輩たちと話し合い、仲間と相談し、あるいは本を読み、賢者に聴き、そうして形成していくべき「本音」を追求しなかったんだ。ベテラン登山家があきれるエベレスト南西壁を「単独」登樊し、ネット民の喝さいを浴びようということ自体、かれの「本音」とかけ離れたものではないか、そんな気がする。
それにしても、どうしてかれを「生きる」方向に連れていってやれなかったのか。周囲の人も、仲間も。そこに現代社会の恐ろしい闇、栄光に潜む深いクレパス、情報社会の非情さを見てしまう。かれを殺した真犯人を追うより、かれの「本音」を見失わせてしまった責任を追及すべきだ。