時
昨日は北野天満宮に市が立つ最終日と聞き、行ってきました。昔ながらの様々な店が並び、売る人の顔や声を楽しみながら歩くひと時は、昔から続く市に人のぬくもりを感じます。1人1人それぞれが、かけがえのない毎日の営みの中で、たくさんの瞬間がある積み重ねが愛おしいと気づきます。目を開き、様々なことを感じ、もっともっと豊かに幸せに生きていこうと強く思う市です。世俗のがんじがらめな世界は、「我慢して働け」とばかり息詰まる世界です。今こうして歩き、この時を活かしていくことが生き延びる道と分かる、北野天満宮の市です。その後の高句麗伝説を経験し、やはり「時」でした。時とは、自分で分からなければ永遠に分かることのない、或いは取り返しのつかない恐ろしいものだと今更ながら分かります。目に見えず、全身で感知するもの。手掛かりは自分です。時間とは、時の間なので完全に落ちていきます。時計は、時を計る管理のために産み出されたものと自分の中で整理されました。時を告げ、分からぬ者は間に落ちていくと、当たり前のことが分からなくなり、乗っかって生きてきた生き方そのものが、取り払われる時と、昨夜の高句麗伝説のすごさに畏怖を感じつつも、このような機会を与えて下さり感謝しかありません。私の入院中、どんなに辛い時であっても 病室を光の空間に変え、白いコーヒーと共に支え続けてくれたミニサウンドシステムの先生のピアノが、ホテルの部屋に響き渡る4日間です。目に見えない「時」の瞬間瞬間を放って下さっていると分かります。最終5日目となった今日、がんじがらめの管理社会に戻っていく明日からどう生きていくのか。正に今日どのように過ごすのかが大事です。本日もよろしくお願いいたします。