春の琵琶湖
前日のいだきしん 先生の「存在論」で、「道徳こそが存在否定」というお言葉から、真の自分で生きれない過去の在りようがわかってきます。ニーチェの道徳の系譜をご紹介いただき、Kindleで早速読み始めたのですがパラパラとめくって読んでいると、今の人間がどうしてこうなっていったかを哲学して、更なる新しい人間になることを模索していたのだと感じるのですが、ニュートラルな状態でちゃんとじっくり読んでみます。パラパラ読みであっても、今、ニーチェが生きていたら先生の存在に驚喜するのではないかと想像できます。どこまでいっても自分さえ対象化し、自己疎外になっていく人間ということを自分の状態で思い知ります。内側から湧き出ずる力で動いていきたいのに、先生、高麗さんにお会いしたときだけ、力が湧いても長続きしない、動けないことが自分と一体化している「死霊」という過去の生き方にどっぷりはまり身動き取れず、さらにお金にどっぷりはまっている状態が、先生が丸ごと受け入れてくださり、目的作って自分を動かすこともなくあるがままでいいんだと講座の最中に何かがごろっと変わりました。先生の存在あって人間という生き物がどうなっているのかがわかると次へいけます。応用コース、存在論、死についての講座で体の中のあちこちにある死霊が剥がれていきます。
今日は琵琶湖の畔の会場での高麗さんの講演会、ビデオ講演会、話し合いに参加させていただきました。本来なら、新規の方を講演会にお呼びできてない結果から、自分を責めて暗くなってしまいそうですが、そんな思いとは裏腹に、琵琶湖の畔での高麗さんの講演会が愉しみでワクワクしながら、びわ湖大津館に行きました。流石に司会をするというのは緊張します。初めての方に高麗さんのお話を聞いていただける場をつくれるか、高麗さんが話しやすいように司会をしているかを考えます。ビデオ講演会の中でのお話から、脳は一つのことよりできない一つ頭、部分になってしまうことが自分の現象として現れ、一見ぼーっとしている状態の全体脳であれば、全体として動けると感じました。高麗さんの魂の言葉は、魂に伝播しているのが、来られたお客様のお話からわかり感動します。自分も魂のままに動いていけたら出会いは必ず起こると感じます。本音で動くことができればいいだけです。迫っている危機のお話を伺うと、毎日が火事場の馬鹿力で生きていれば、死霊が抜けていく今日だからでしょうか、人と会い、自分を知って、先生、高麗さんに、生命助かる出会いをおつなぎできれば楽しいです。営業は大の苦手と思い込んでいましたが、基本を知らず、勝手にやって成果上がらず、嫌になっていただけで、営業が嫌なのではなく、成果上がらないことを繰り返している自分が嫌になってしまったのです。「堕落」とお聞きするといやーな感じがします。生活のためにお金稼いでいる状態が堕落とお聞きすると、全くその通りです。お金のために、この世の仕事すること自体が堕落と伺い、スッキリします。世界を変えるためにチケット販売しながらお金稼げる時が来たと感じときめきます。結局、高麗さんのことを講演することを仕事にしたいと大学病院を辞めたときからのやりたいことをやろうと企画して、飛び込み営業しながら、人をお誘いしていて気づいたのですが、その場で高麗さんのこと、高麗さんとの出会いのことを話しているので、わざわざ会場借りてしゃべらずとも、人に会って話せばいいだけとわかり、さらにコーヒーも買っていただけて、グルグル回って、結局営業で人に会って高麗さんのことを話せばいいということだったのでした。大笑いです。何かがはじまる、春の琵琶湖です。
ありがとうございます。