日本の曙
3日連続コンサートの3日目の今日は、終演後にビデオメッセージを収録する時、空間は朝が来たと感じる程、明るく輝いていました。長い闇の時は終わり、日本の曙と何度も言葉が生まれる演奏でした。コンサート後は月と星が輝き、ご挨拶してくださいました。
第一部「集まるちから」
「正しく理解してほしい「いのち」「たましい」がどんどん集まってきます。正しく、ということが真実であるので、当然といえば当然です。それ以前に正しく生きるということは何でしょう。正しく生きているつもりが間違いを起こすのが人間の常です。死んで忘れられてしまうのがほとんどです。歴史という人間特有の世界があり、真実をしるすというのが前提なのです。しかしながら、これは多くの間違いが当然の如くにして混在しています。日本の神々についての理解もたくさんの間違いを犯しています。神はそのままでありのままの神のはずですが。。。日本最古の神社は有史以前から今に至るまで続いています。歴史を背負いながら風雪に耐え今に至り未来に向かいます。神は黙して語らない存在ではありません。神と祀られる以前に真を実現しました。「大和は国のまほろば」」
最初から聴いたこともないピアノの音に驚喜し始まりました。荘厳でありながら軽やかで、光の如くに大空を飛翔する蒼い鳥のように見えました。蒼い風のようにも見えました。どちらも私が大好きな光景です。もしや、饒速日命が動き始めたお姿はこのようなのでしょうか、と勝手に想像することも、心がときめきてならない演奏でした。神々しく、全て在りながら、何もない心地よさは最高に気持ち良いです。昨日から、たとえ誰がわからないとしても、真があらわれ、世界は変わったのです。今日のメッセージのように、「正しく理解してほしい「いのち」「たましい」がどんどん集まっています」そのままが見えました。それは真実を表し生きた人であるなら、正しく理解してくださる先生の元に集いたいとは身に染みわかります。真に生きながらも随分と長い年月、理解されることもなくあったのです。今この時を知ったなら、それは自然と動き出し、先生の元に集うでしょう。昨日の饒速日命が登場されたので、真があらわれたことを空間を通して世界中に伝播したのだと見えます。神々、魂が蒼い鳥となり蒼い風となり先生の元に集い、自由に飛翔する光景が見え、とても清々しく心地よく、最高の演奏に神を見る思いでした。パイプオルガンの演奏は、神々が集い、合体し、完璧な全体となりました。全体神という言葉があるのかは知りませんが、演奏から見える図形を言葉にするなら全体神となります。有無を言わさぬ完璧なる真の世界です。全ての力が結集した存在が全面に現れています。なんという場面に居合わせたことでしょう。光栄の極みです。「神として祀られる以前に真を実現しました」とのメッセージにも度肝を抜かれました。真を実現した神が集い、集結したのですから、この強さ、美しいこと、完璧なこととなるのだと頭を垂れます。歴史を背負い、風雪に耐えながらも今に至るまで続いている神社とのメッセージからは、どんなに隠されても存在する真があるところは絶えることはないと教えられます。今、この時代に先生がおられ、真を表現してくださり、真があらわれ真を実現した神々が集結の時を迎えたのです。畏れ多い、歴史的瞬間です。生命の内から「日本の曙」と言葉が生まれます。
第2部「秀真の国」
「秀真国」とは日本国の美称です。卑怯は短命に終わります。広辞苑によりますと、「卑怯」とは「心が弱く、物事に恐れること。勇気のないこと。臆病。心だてのいやしいこと。卑劣。」などです。「秀真国」にはこのような卑劣なことは露程も存在しません。我々の日常から妥協なく徹底してこのような卑劣なことを見極め即、排除解決することです。内面的に美しいことは言うまでもありません。恋も愛も輝くばかりの生命があり成立します。人生100年時代に突入しました・どのように生きましょうなどという間がありません。ただ生きているだけでも尊いいのちです。輝いて輝いて生きてこその人生です。」
秀真の国からいきなり「卑怯は短命に終わります」とのメッセージにどのようなことかをわからずにいても胸がドキっとし、ギョッとしたのです。卑怯の意味を広辞苑で書かれているままに書いてくださいました。最も嫌悪する在り方です。心が弱いことも、物事に恐れることも、勇気のないことも、臆病も、そして最も嫌悪するのは心だての卑しいことです。以前のある時、ある御方にお会いしました。東アジアをひとつにする道を作りたく動いている時でした。北朝鮮へ行く道を創りたい気持ちもあり、お会いした方でしたが、わたしは心の中で「卑しき者よ」と言い放っていたのです。この人に協力していただく気はないと即座に判断しました。卑しいという言葉から受けるエネルギーは私が最も嫌悪するものです。が、短命というメッセージにギョッとしたのです。一族は短命ですので、わたしも先生に出会えたからこそ今も生きていれるのですが、短命という言葉はいつも自分の限界を作っています。秀真の国には卑劣なことは露ほども存在しないとのメッセージに姿勢を正されます。「我々の日常から妥協なく徹底してこのような卑劣なことを見極め、即排除解決することです」を実行すると決めました。秀真の国で生きる真の人間の在り方を教えていただき、真逆の意識に気づきました。年を重ねることは、年々体が弱り、やれることが減っていくという思いがありました。故に年々限界の壁に向かい生きることが寂しく、虚しくなるのです。演奏をお聞きしていると、年を重ねるということは年々重荷を下ろし、身軽になりやれることが増えるとわかりました。人間とし生きていければ年々豊かに生きていけるのです。意識の大きな歪みがとけていくと喜びばかりが生まれます。パイプオルガンの演奏からは神々とふれあい、語りあう豊かな時を経験させていただきました。私が今まで描いていた絶対神とは違い、変化激しく、瞬間瞬間姿を変え、動きを変え、自由自在、変幻自在に動く神と対話ができますことは心が豊かになります。神は心にはたらきかけてくださり、心が神と通じ、神様が変幻自在に変わり続けていくように私の心も変わり続けていける豊かさはこれ以上ないと感じる程豊かです。神共に生きてきた秀真の国の生き方を学びます。固定した頭ではつかみどころがない神々の自由な動きを目の当たりにし、真を鏡とし、そして神を鏡とし自分のあり方が映し出されました。昨夜偶然見た番組から受けたことが心にあり考えました。偶然見た場面では有名な芸人が、私が時折、夜に襲ってくる苦しみのことを話していますが、同じことを語っていたのです。夜になると突然恐怖に襲われ、生きていることが辛いと言う内容でした。死に向かい生きることの恐怖、虚しさを語っていました。自分の業の苦しみを語っています。芸をする時は業の苦しみから気が紛れると言う内容の表現をお聞きし、私はすぐにいだき講座をお伝えせねばならぬとその苦しみを痛い程にわかり、今までお伝えしなかったことを申し訳なく感じました。が、その方は、お亡くなりになっていました。私が夜中に襲われる苦しみは多くの人の苦しみを身に受けているのだともわかりました。私は先生に出会え、業を解決していただいています。先生に出会えない方は業から目を背けても苦しみは解決することなく、人生賭けて行っていることをしている時だけ業の苦しみから気が紛れるということなら人生は気を紛らわして生きていることと感じ、悲しみを感じました。わたしは同じ時代に生きていながら苦しいままで生きる人に先生のことをお伝えしたい気持ちでいっぱいです。そして自分も最もやろうとしていることにはなかなか手がまわらないという恥ずかしい現実を認めました。気を紛らわしてやっているつもりはありませんでしたが、自分でやろうとしていることを先にせずに他のことをしているのは同じことと気づき、今死んだら卑怯者となるのだと恐ろしくなりました。自ずと、自分のやることは見え、今日の真を前にし自分の状態が露呈するという経験をしたなら、今後は一切の誤魔化しも言い逃れもできないとわかります。やるよりない状況となり、やっとやれる時が来ました。演奏をお聴きしていながら最も奥深い本質に向き合い、人生を真剣に考え、答えを見出していけますコンサートの機会は人間であればどなた様にも必要な経験であると身にしみ感じます。神様とふれあい、通じ合い、語り合える尊い機会があるので、人間となれるのです。第2部の演奏が始まった時、胸の奥で「わたしは人間です」と名乗り出ている存在を感じました。人間であればどう生きるかと問うてみました。人間は心で神と触れ合い、語り合い、神が変化すると同じに変化し続け心豊かに生きると神に語りました。私は神様と語り合えれば幸せです。先生のコンサートにて静かにじっくりと神様にお会いでき、多くを教えていただける尊い機会が真にありがたく幸せを感じます。そして幸せな経験は世界中の人と共に経験し分かち合えることを望みます。ありがとうございます。