新しい空間と光
朝目覚めると体が『もう絶対にコンサートへ行ったほうがいい』と言っていて、午前の予定を済ませそのまま新幹線に乗った。どうしてコンサートへ行くと決めたときは遠い道のりも軽々と体が動くんだろう。いだき以外の決められた世の中のことは、簡単なことも体が痛く、だるく、何も進まないのに。コンサートへ行くだけでは駄目だとわかっても、コンサートへ行かないともっと駄目で、これまで出来ていたことさえも出来なくなる。行きながら、考え、動くよりない。
最近の先生の演奏は音と音に切れ間が無く、ピアノというよりも大自然の音、大宇宙の音。それも最新の自然、宇宙の表現と感じ、昨日はとにかく首、肩、背中、心臓の裏側に重さと痛み、苦しさがあった。第一音目の音でそのことに気付いた。体が鈍くなっており、それまで痛みや重さを自分でわからなくなっていたことにも気付いた。特に左側が辛く、心臓の裏にも何か貼りついているようで、最新の針治療を受けているように音が染みこんできた。あるところで針が金糸の絨毯のようにふわりと心臓を包み、楽になっていった。申し訳ないことに第一部はあっという間に、体の痛みを溶かしていただくうちに終わってしまった。椅子に座りながら『この経験を、しないなんて有り得なかった』と、『今』という音と一体化する。サウンドシステムで配信をお聴きするときもそうですが、音が出た瞬間に『今』が『いだき』となり、自分の身は空間とひとつとなる。これこそいだき。
歴史的妄想、とは?『高句麗伝説は歴史的な催しだ。』という文で使われている『歴史的』とは違うように感じる。もちろん違うだろう。歴史を繰り返す中で抱いてしまった妄想という意味だろうか。もしそうであれば・・・自分にも強い傾向と自覚します。
地方では、都会より1、2年ぶんくらい時の遅く到来する感じがあり、コンサート後いまもまだ、体の前面はヒリヒリと、先生のコンサートは治療ではありませんが、例えるなら良い治療をしていただいた後の爽快な痛みがあります。以前『部分から世界は変わらない。世界から、全体から部分も変わる』という意味のお話をお聞きしました。とりとめないのですが地方や地元に良くなってほしければ全体や世界を考え生きることと体感しています。
生まれたままの光で愛を経験し生きられる類い希なる催しをありがとうございます。